第25話 弟の髪、僕の影

第25話 弟の髪、僕の影

日曜日の午後、空は淡く滲んだ灰色だった。
 美香から「弟のことで少し相談に乗ってもらえませんか?」とメッセージが届いたのは、前日の夜だった。
 短い文面だったが、どこか切実さを含んでいた。
 ──あの時の“相談”って、これだったのか。
 ぼんやりそう思いながら、トモユキは駅前のカフェに向かった。

 ガラス越しに見えた美香は、どこか落ち着かない様子でカップをいじっていた。
 その隣には、フードを深くかぶった少年がいた。
 美香が手を振る。「トモユキさん、こちらです」
 少年は顔を上げ、わずかに会釈をした。
 切れ長の目、やや青白い肌。どこか影のある表情だった。

「弟のユウタです。高校二年生なんですけど……」
「はじめまして」
 少年は控えめに言った。声は低く、少し震えているようだった。
 帽子の下から、短く刈り揃えられた髪がのぞいている。
 その生え際が、不自然に後退していることにトモユキはすぐ気づいた。

 ──なるほど、そういうことか。

 しばらく沈黙が流れた。。。。。。
 美香が口を開いた。
「ユウタね、最近ずっと帽子を取らないんです。家でも。髪のことを気にしてて……学校にも行きづらくなってて」
 トモユキはうなずいた。
 ユウタは視線を落としたまま、テーブルの木目を指でなぞっていた。
 自分の過去を見るようで、胸の奥が締めつけられる。

「俺も、同じだったよ」
 静かな声が自然と出た。
「最初は、生え際が気になって……鏡を見てはため息ばっかり。気づいたら、帽子が“鎧”みたいになってた」

 ユウタが顔を上げた。
 その目に、一瞬だけ興味の光が宿った。
「……トモユキさんも?」
「ああ。今も完璧に吹っ切れたわけじゃないけどな」
 少し笑って見せる。だが、笑いの奥には確かな共感があった。

 美香はそっと息をついた。
「私、何も言えなくて。女の私が“気にしすぎだよ”なんて言っても、軽く聞こえちゃうから……」
「わかります」とトモユキは頷いた。
 髪の問題は、他人には“表面”しか見えない。けれど本人にとっては、アイデンティティの一部が崩れる感覚だ。
 まして十代。世界は狭く、視線は鋭く、心はまだ柔らかい。

「ユウタ、ちょっと帽子、取ってもいいか?」
 トモユキが言うと、ユウタは一瞬ためらった。
 だが、姉の目を見てから、ゆっくりとフードを下ろした。
 前髪が薄く、頭頂部の地肌が少し透けていた。
 それを見た瞬間、トモユキの胸が痛んだ。
 まるで昔の自分を覗き込んでいるようだった。

「……これでもう、笑われるのが怖くて」
「誰に?」
「クラスのやつら。何も言わないけど、視線が刺さるんです」
 ユウタの声が震えた。
 美香が隣で黙って彼の手を握った。
 その姿を見て、トモユキはゆっくり言葉を選んだ。

「ユウタ。俺も昔そうだった。けどな――髪のことで“笑う側”のほうが、ほんとは何かから逃げてるんだよ」
「逃げてる?」
「ああ。自分のコンプレックスを見ないように、他人の欠点を笑うんだ」
 ユウタは黙っていた。けれど、その沈黙は受け止めようとする沈黙だった。

 少し間を置いて、トモユキは続けた。
「髪を失うってさ、見た目以上に心が削られる。でも……そこに気づけた人間は、他人の痛みにも気づけるようになる」
「痛みに?」
「そう。俺は今、髪のことを通して、人をちゃんと見ようって思えるようになった。前は、そんな余裕なかったけどな」

 ユウタは、初めてわずかに笑った。
 その笑顔は、小さな光のようだった。
 美香が安心したように微笑む。
「ね、言った通りでしょ。トモユキさんに会ってよかった」
 ユウタは照れくさそうにうつむいた。
「……ありがとう。ちょっとだけ、気が楽になりました」

 トモユキはグラスの氷を見つめながら、心の奥が静かに温まっていくのを感じた。
 彼の中で、長い間くすぶっていた“自分だけが苦しい”という孤独が、少しずつ薄れていくようだった。

 カフェを出る頃には、雨が上がりかけていた。
 空気は湿り気を帯び、街のアスファルトが光を反射していた。
 ユウタは帽子を持ったまま、空を見上げていた。
 「久しぶりに風、感じました」
 その言葉に、トモユキは笑った。
 ほんの一瞬、少年の中の“次への希望”が見えた気がした。

 美香が言った。
「今日は本当にありがとうございました。ユウタ、また話してみたいって」
「俺も、また会いたいな」
 そう答えながら、トモユキは自分の言葉に驚いていた。
 誰かの支えになりたいと、心から思えたのはいつ以来だろう。

 ──“他人の薄毛”に、自分の影を見た。
 でもそれはもう、悲しみの影じゃなかった。
 “繋がり”の影だ。

 駅へ向かう途中、背後で誰かが彼の名前を呼んだ気がした。
 振り返ると、そこには誰もいなかった。
 けれど、確かに胸の奥にあの声が残っている。
 風のように、優しく、どこか懐かしい響きで。

 ──あの声は、誰だったのだろう。。。。。。