第26話 鏡の中の少年

 その夜、トモユキはなかなか眠れなかった。
 枕元に置いたスマートフォンの画面が、何度も勝手に光っては消える。通知など来ていないのに、まるで誰かが「まだ起きてるか?」と呼びかけているようだった。
 ユウタの笑顔が、頭の奥で静かに反芻されていた。

 ──風を感じました。
 昼間、あの少年がそう言った瞬間の表情が、目に焼きついて離れない。
 恐怖と解放が入り混じったような、あの微妙な顔。
 自分も、あの年の頃にあんな顔をしていたのだろうか。

 トモユキは寝返りを打ち、天井を見つめた。
 風を感じるということ。それは、鎧を脱ぐということだ。
 つまり、恐れに身を晒すということでもある。

 彼の胸の奥で、何かが小さく疼いた。
 ──俺は、いつから風を感じなくなったんだろう。

 鏡台の上に置かれたブラシ、整髪料、育毛トニックのボトル。
 それらが、ぼんやりとした闇の中で光を反射していた。
 まるで自分の弱さの証拠品のように、そこに並んでいる。
 彼は起き上がり、裸足のまま洗面所へ向かった。

 鏡の前に立つ。
 電灯をつけると、白い光が彼の顔を切り取った。
 頭頂部の薄い部分に、ため息がこぼれる。
 何度も見慣れたはずの光景なのに、今夜は違って見えた。
 そこにいるのは、自分ではなく――まるで少年のようだった。

 「……お前か」
 思わず声が漏れた。
 鏡の中の自分が、ゆっくりとこちらを見つめ返す。
 薄毛を気にし、帽子で隠し、笑われるのが怖かった少年。
 彼は、今もそこにいた。

 ──お前、ずっとそこにいたのか。
 心の中でそうつぶやくと、胸が熱くなった。
 消そうとしても消えなかった恐怖。
 見ないふりをしてきた劣等感。
 それらは消えることなく、静かに息づいていたのだ。

 ふと、スマートフォンが震えた。
 画面を見ると、美香からのメッセージだった。
 「ユウタ、あのあと鏡を見て、少し笑ってました。本当にありがとうございました。」
 その一文が、胸の奥に温かく染みていった。
 彼はスマートフォンを伏せ、鏡に向かって微笑んだ。
 「……俺も、鏡を見て笑えるようにならなきゃな」

 電気を消し、闇の中で再びベッドに戻った。
 外では夜風が静かに吹いていた。
 窓の隙間から入ってくるその風が、肌に触れた瞬間、トモユキの心は少しだけ軽くなった。
 ユウタの「風を感じました」という言葉が、今は自分の胸の中でも響いていた。

 ──風は、恐怖の向こう側にしか吹かないのかもしれない。

 彼は目を閉じた。
 しかし、眠りの境界で、ふと奇妙な感覚に気づいた。
 誰かが、ベランダの外に立っているような気配。
 まるでガラス越しに、彼の頭を見つめているかのような……。

 恐る恐る目を開ける。
 カーテンの隙間から、街灯の光が差し込んでいる。
 そこには誰もいない――はずだった。
 だが、その光の中に、人影のようなものが一瞬、動いた。

 トモユキは立ち上がり、カーテンを開けた。
 夜の街は静まり返り、遠くで電車の音が響いていた。
 空には雲が流れ、月がその隙間からわずかに顔を出している。
 ──気のせいか。
 そう思ってベランダに出ようとしたとき、視線を感じた。

 下の階、通りに面した暗がりに、ひとりの少年が立っていた。
 帽子をかぶっていない。
 短い髪を夜風に揺らし、上を見ている。
 ユウタだった。

 「……ユウタ?」
 思わず声を上げた。
 しかし、少年は何も言わず、ただ微笑んだ。
 その笑みは、どこか現実味を欠いていた。
 次の瞬間、彼の姿は闇に溶けるように消えた。

 心臓が速く打ち始めた。
 夢か、幻か、それとも――。

 翌朝、目を覚ますと、ベランダの柵に一枚のメモが挟まっていた。
 風に揺れ、かすかに擦れた文字が読める。

 「風は感じましたか?」

 それは、確かにユウタの筆跡だった。