夜の空気は薄くて冷たいフィルムのように、街を包んでいた。
ベランダの柵に挟まれていた紙切れを指で撫でると、紙の角が指先に冷たく当たった。「風は感じましたか?」——ユウタの字。シンプルだが震えが残るその筆致が、夜の静けさの中で妙に鮮やかに響く。
トモユキは、もう一度窓の外を見た。下の道は遠く、街灯が点々と落ちた絵画のように並んでいる。歩道には人影がほとんどなく、たまに通る車のライトが黒いアスファルトに白い槍の層を引く。その光に、自分の頭頂の薄さが照らされることを想像してしまう。胸の奥の小さな不安がうずく。だが今夜は、別の不安がそれに重なっていた——「本当にユウタは来たのか」という問いの不条理さである。
昨晩見たユウタの姿は、夢のように確かで、現実のようにありありとしていた。帽子を取った瞬間の彼の顔、微かに震えた笑い、夜風に揺れる前髪の線。すべてが木炭で描かれたスケッチのように鮮明に残る。しかし朝になれば消えてしまう——そう思いこもうとしても、ベランダに残ったメモが冷たく否定する。現実はいつだって、簡単には消えない。
彼はその紙をポケットにしまい、コートを羽織った。外は思ったより冷たく、呼吸が白く浮かんだ。夜風が鋭く、顔を切る。だがその痛みがどこか心地よくもあり、彼は歩き出す。目的はない。確かめたかったのだ。ユウタがそこに立っていたという事実を、もう一度自分の眼で捕まえたい——だが同時に、見つけてしまうことを恐れてもいた。確認は、救いにもなりうるし、残酷にもなりうる。
公園の角を曲がると、街灯に照らされた片隅に一組の影があった。距離を詰めるうちに、それが子供の背丈ではないことに気づく。人影はふたり。背中合わせに座るそのシルエットは、どことなく非対称で、不均衡な調和を作っている。片方はフードを深く被った若者のように見え、もう一方は体の膨らみが少なく、帽子を置いたような平らな頭の形だった——スキンヘッドだろうか。彼の胸がぎくりとした。あの夜、彼が会ったのはユウタだけではなかったのかもしれない。赤いネクタイの男が、遠い影の中にいるという感覚が、みるみる現実味を帯びてくる。
「ここに来るとは思わなかったな」——低い声。フードの若者が話す。それはユウタの声ではない。もう一つの、もっと落ち着いた声。スキンヘッドの人物が振り返る。近づく足音が砂利を踏むたびに、空気が少しだけ濃くなる。顔が見えた瞬間、トモユキの胸は凍った。だが凍ったのは恐怖ゆえだけではない。見覚えのある面差しがそこにあった。高い頬骨、薄く刻まれた笑い皺、そして——目の端に、赤の点がちらりと見えた。赤い織りのような差し色。それはネクタイに見えた。
「君が来るとはね」——その声は彼の耳に届いた。言葉に含まれるのは、歓迎でも非難でもない、計測するような調子だった。相手は椅子の背に腕をかけ、夜を眺めている。顔がわずかに影に溶けるたび、表情の輪郭が微かに変わる。真っすぐに見つめられたとき、トモユキは自分の胸の中のものが、突如として露わになるのを感じた——脆さ。彼は足を止め、言葉を探す。
「君は……誰ですか」——口が乾いていた。問いは、どこか子供じみている。だが同時に、尋ねること自体に勇気は要らなかった。問いの重さは、むしろ返答にあった。
スキンヘッドの男はゆっくり笑った。「名乗るほどの者ではない。ただ、よくここを通るだけだ」その視線がユウタへと移り、そして再びトモユキに戻る。赤い点——ネクタイの色が光を含んで、夜の輪郭とりどりに跳ねた。「君が、あの人か」。男の言葉は疑問でもなく、断定でもなく、ただ事実を並べるだけだった。
言葉を受けた瞬間、トモユキの胸の中に何かが崩れ落ちるように響いた。——「あの人」? それは自分か。他人か。赤いネクタイの男との関係をめぐる記憶と想像が、瞬時に重なっていく。彼は口を閉ざし、代わりに別の声音が出た。「昨晩、ここに来たのか?」 それは自分への問いでもある。彼は思い出す。ベランダのメモ、ユウタの無邪気な笑顔、消えた背中。すべてが線で結ばれていくのを感じた。
フードの若者が小さく肩をすくめた。「ここには、いろんな人間が来る。風を求める者、逃げる者、記憶を置いていく者。あんたはどれだ?」彼の言葉は柔らかいが、刃のように鋭く、問いは突き刺さる。トモユキは反射的に胸に手を当てた。心臓が速く打ち、指先に冷たさが戻る。
スキンヘッドの男が煙草をくゆらせる仕草をした。火の先に小さな赤が灯る。炎が一瞬で、赤いネクタイの幻影を彼の襟元に描くように見えた。トモユキはその赤を見つめる。あの色は嘲笑か、それとも単なる色彩なのか。意味を引き出そうとしても、男はただ笑うだけだった。
「君は、自分をどう見てる?」——男の問いはじっとりと彼の肌を撫でる。トモユキは息を吐き、目を閉じる。鏡の中の自分。少年のような自分。ユウタの顔。友人たちの冗談。小さな鏡の破片が、胸中で散らばる。言葉がまとまらない。だが口は真実を求める。「僕は……怖がっている。でも、独りでいるのが嫌だ」その声は弱々しく、自分でも意外だった。
スキンヘッドの男は頷き、煙草を消す。「孤独はたしかに重い。だが重さを測るのは、いつだって他人だ。君がそれを背負う必要はないかもしれん」彼は立ち上がり、フードの若者に向き直る。「行こうか、ユウタ」。若者が立ち上がると、夜風が二人のシルエットを裂いた。去り際、若者がふと回れ右して、トモユキに向けて一言だけ投げた。「風を感じたか」。そして、二人は闇に紛れた。
その言葉が胸に残る。「風を感じたか」。ユウタの手紙と同じ問い。だが今は別の意味で響いた。風——それは単に外気の感覚だけではない。風は時間であり、記憶であり、人の視線でもある。感じるかどうかで、世界はいつでも変わる。彼はその場にしばらく立ち尽くした。胸の中に、一冊の重い本を抱えているような感覚があったが、同時にページのめくれる音が聞こえるような気もした。
帰路、街灯が淡く滲む道を歩きながら、トモユキは赤い点が胸に焼きついたのを感じた。嫌悪でも恐怖でもない、もっと複雑な何か——興味と反発、そして奇妙な親近。彼は自分の胸ポケットに手を入れた。そこには、昨夜のメモがまだ折り畳まれていた。「風は感じましたか?」——問いは今や、彼自身への問いとなる。
家に戻ると、何気なく洗面所の鏡を覗いた。鏡は淡々と彼を映すだけで、昨夜の幻たちはそこにはいない。しかし彼の瞳の奥には、夜の出来事が小さく燃えていた。鏡の中の自分に向かって、静かに、だが確かに言葉を放った。「風を、感じよう」——その言葉は呪文のように胸に響いた。
窓の外、電灯の光が一度だけ強く揺れ、何かが遠ざかる音がした。赤は消え、影は散った。だが、風は残った。やがて眠りが来るまでの短い時間、彼はそれに耳を澄ませた。夢の境界で、彼は少年の笑顔とスキンヘッドの男の赤い点と、ユウタの手紙の文字が交差するのを見た。意味はまだはっきりしない。けれど確かなことが一つだけある——もう、ただ隠れるだけの生き方は嫌だ、という小さな決意が、胸に灯っていた。
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