ユウタは、あの夏から少しだけ大人びていた。
髪は相変わらず細く、前髪のあたりがうっすらと透けているのに、本人はもうそれを隠そうとしない。
代わりに、柔らかく笑うようになっていた。
「隠したって、風が吹いたらばれるっしょ」
ある日、駅前の喫茶店でユウタはそう言った。
トモユキはコーヒーをひとくち啜りながら、頷いた。
その笑顔に、かつての自分を見た気がした。
「風、吹かないように祈ってた時期がありました」
「マジで? 祈るってどんなふうに?」
「朝、鏡見ながら“今日は無風でありますように”って」
ユウタが吹き出した。
「それ、ヤバいっすね。でも、なんかわかるかも」
笑いながらも、彼の指は無意識に前髪をなぞっていた。
その仕草の奥に、まだ残る“恐れ”の影をトモユキは見逃さなかった。
——恐れ。
それは、髪を失う恐怖というより、他人に“自分の不完全さ”を知られることの怖さだ。
誰もが通る暗い通路のようなもの。
トモユキも、そこをずいぶん長く歩いた。
■ 回想──「カットモデル事件」
五年前の夏、会社の同僚に誘われて美容師学校のカットモデルを頼まれたことがあった。
「簡単なトリミングだから」と言われて油断していたが、実際は生徒の実技試験。
講師が見守る中、若い見習い美容師がハサミを構えた。
トモユキの額に貼りついた薄い髪を前に、彼女は一瞬、手を止めた。
「……どうしよう」
その小さな呟きが、鏡越しに刺さった。
“どうしよう”と呟かれるほど、自分は薄いのか。
その瞬間から、世界が遠のいた。
結局、思っていたより短く切られ、額の薄さがむき出しになった。
職場では「若返ったね」と笑われたが、心の中では何かが音を立てて崩れた。
それ以来、床屋も美容院も避けてきた。
自分の髪に触れる他人の手が怖かった。
だが今、ユウタの正面でコーヒーを飲むこの瞬間——
不思議とその痛みが“懐かしさ”に変わりつつあることに気づく。
過去の痛みを語れるようになったとき、人はようやくそれを超えるのかもしれない。
「トモユキさん、聞いてもいいっすか?」
ユウタがストローを回しながら言った。
「なんで、そんなに優しいんすか?」
意表を突かれた。
「優しい?」
「いや、なんか、俺のことも、美香姉のことも、ぜんぶ受け止めてくれる感じ。普通の人なら、引くじゃないっすか。薄毛の話とか、過去のこととか」
トモユキは少し笑って、言葉を探した。
「たぶん……自分が一度、そういう場所にいたからです。笑われる側に」
「……そっか」
ユウタはゆっくりと頷いた。
その横顔に、ほんのりと光が差していた。
■ 美香のノート
その夜、トモユキの部屋の机に一冊のノートが置かれていた。
「ユウタに渡しておいて」と美香から預かったものだ。
開くと、几帳面な字でこう書かれていた。
“あなたの髪は、あなたを苦しめるけれど、
あなたの優しさも、そこから生まれているのかもしれない。
だから、憎まないで。
自分の髪も、自分自身も。”
ページの端に、かすかに涙の跡があった。
トモユキは胸の奥がじんと熱くなった。
そのノートを閉じながら、ふと思った。
——この兄妹は、髪という“呪い”を共有している。
だが同時に、それが彼らを結びつけてもいる。
もしかすると、自分もその円の中に入っていけるのかもしれない。
■ 翌週の夜──屋上での風
「トモユキさん、上がりましょう」
ユウタが手を振った。
アパートの屋上。
夏の終わりの風が、遠くのビルの影を撫でていた。
「俺、最近ようやくわかったんすよ」
「何を?」
「髪って、失うと“他人の痛み”が見えるようになるんすね」
ユウタは笑いながら、髪をかき上げた。
その動作にはもう、あの怯えた影はなかった。
「でも、風が吹くとやっぱり怖いっす」
「……風は誰の上にも吹くものですよ」
「名言っすね」
「いえ、ただの薄毛持ちの感想です」
ふたりは笑った。
そのとき、不意に下の通りから声がした。
「ユウタ——!」
美香の声だ。
振り向いたユウタの顔が、一瞬で強張った。
階段の影から、もうひとりの男が姿を現した。
痩せた体に高級そうなスーツ。
目だけが異様に冷たい。
「……兄貴?」
ユウタが呟いた。
トモユキの胸に小さな疑問が走った。
——兄貴? 美香の弟はユウタのはずだ。
この男は誰だ?
美香の声が震えていた。
「お願い、ユウタ。今は行かないで」
夜風が髪を揺らし、沈黙の中に不穏な気配だけが残った。
風のない午後を願った日々はもう過ぎた。
だが、今度は嵐の前の静けさのようだった。
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