夜の風が、屋上の鉄柵を鳴らしていた。
「兄貴……?」
ユウタの声が、わずかに震えていた。
その言葉が、トモユキの脳の奥で何度も反響した。
美香は階段の下から顔を出し、ユウタを睨むように見上げていた。
「ユウタ、降りてこないで」
「なんで? なんで兄貴がここに?」
「お願い、今はダメ」
そのやり取りを見て、トモユキはゆっくりと状況を整理しようとした。
“兄貴”と呼ばれた男は、トモユキよりやや年上に見えた。
高そうなスーツを着ているが、襟は少し皺だらけ。
そして、額のあたりにわずかな地肌の光。
——彼もまた、“同じ側”の人間だった。
男は冷たい視線をユウタに向けた。
「久しぶりだな。ずいぶん元気そうじゃないか」
「なんでここにいるんすか」
「お前が消えたとき、母さんがどんな顔をしたと思う?」
ユウタの拳が震えた。
美香が割って入る。
「やめて、タカシ兄。ここで言い争っても仕方ない」
タカシ——それが、兄の名前らしい。
美香の声には、どこか過去の痛みを押し殺すような硬さがあった。
トモユキは何も言えず、ただ立ち尽くしていた。
三人のあいだに吹く風の温度が、一瞬で変わったのを感じた。
それは、髪をなでる優しい風ではなく、古い傷をなぞるような風だった。
■ 沈黙のあと
「俺、もう帰ります」
そう言って、ユウタは階段を降りていった。
残された美香とタカシの間に、薄い月光が落ちている。
「あなた……まだ、あのことを根に持ってるの?」
美香の声は静かだった。
「根に持ってる? あんなこと、忘れられるわけないだろ」
トモユキは少し距離をとって立っていた。
——“あんなこと”とは何だ?
薄毛をめぐる兄弟の確執? それとも、家族の秘密?
タカシが低い声で続けた。
「ユウタが小学生のころ、あいつが泣きながら俺に言ったんだ。“僕もお兄ちゃんみたいにハゲるの?”って」
その言葉に、美香の表情が強張った。
「あなたが、鏡の前であんな姿を見せるからでしょ」
「見せたくて見せたんじゃない!」
風が、ふたりの間を切り裂いた。
トモユキはその会話の断片を、まるで過去の記録のように心に刻みつけた。
——薄毛は、ただの“外見”の問題じゃない。
それは、家族の中で受け継がれる“無言の痛み”なのかもしれない。
■ 回想──トモユキの父
その夜、帰宅したトモユキは、鏡の前で父の面影を思い出していた。
父は無口な人だった。
いつも新聞を読みながら、自分の頭頂を手でなぞっていた。
その仕草を、子どものころのトモユキは不思議に思っていた。
「なんでそんなに頭触るの?」と聞くと、
父は笑って答えた。
「髪はな、触ると安心するんだよ。そこにまだあるって」
——“まだある”。
その言葉を、あのときは軽く受け流した。
けれど今なら、あの笑顔の裏に潜んでいた“恐れ”がわかる気がする。
髪を失う恐怖は、時に言葉よりも深く、静かに受け継がれていく。
ユウタの兄・タカシ、美香、そして自分。
誰もが同じ“遺伝の糸”の上で、揺れている。
■ 翌日の電話
翌日、昼休みに美香から電話があった。
「昨日はごめんなさい。……あんな空気にして」
「いえ。僕のほうこそ、何もできなくて」
「実はね、ユウタ、今朝から帰ってこないの」
トモユキの胸にざらついた不安が広がった。
「連絡は?」
「既読はつくの。でも、返事がない」
「……探しましょう。僕も」
電話を切ると、トモユキは外に出た。
風が吹いていた。
信号待ちの間、ふと、ガラスに映る自分の姿を見た。
額の生え際。
あの日より、ほんの少しだけ後退している気がした。
“髪はな、触ると安心するんだよ”
父の言葉が脳裏をよぎった。
けれど今のトモユキは、手を伸ばさなかった。
——触れずに、受け入れる。
それが、ほんの少しだけの成長の証のように思えた。
■ 見つけた場所
夕方。
ユウタは河川敷にいた。
スマホの画面を見つめながら、ぼんやりと風に髪を任せていた。
「探したぞ」
トモユキが声をかけると、ユウタは振り向いた。
目の下には薄くクマができている。
「ちょっと、考えたくて」
「兄貴のこと?」
「うん……。あの人、俺が家出たとき、何も言わなかったんすよ。
でも昨日、初めて“帰ってこい”って言われた」
「どう思った?」
「わかんない。……でも、正直ムカついた。
だって、今さらだし」
風が吹いた。
ユウタの髪がゆっくり揺れる。
トモユキはその揺れを見ながら、静かに言った。
「僕もね、父に似てるって言われるのが嫌だった」
「なんでっすか?」
「似てるってことは、“同じように失っていく”ってことだったから」
「……わかる気がします」
ふたりの間に沈黙が落ちた。
しかしその沈黙は、痛みではなく、共鳴に近かった。
傷と傷が、風の中でそっと重なったような。
■ 夕暮れの伏線
「でもさ、トモユキさん」
ユウタが口を開いた。
「俺、この前の屋上で聞いたんすよ。
兄貴が美香姉に言ってた“あのこと”って……なんなんすか?」
トモユキは答えられなかった。
なぜなら、美香からもまだ聞いていない。
ただ、気になって仕方がなかった。
“あんなこと”という言葉の奥に、どんな痛みがあるのか。
「たぶん……髪のことだけじゃない気がする」
「え?」
「もしかしたら、もっと深いもの。
——受け継がれてる、誰かの秘密とか」
そのとき、ユウタのスマホが震えた。
画面には、タカシの名前。
ユウタは一瞬ためらったが、通話を取った。
「……兄貴?」
『ユウタ。母さんが倒れた』
沈黙。
風の音だけが、川面を渡っていった。
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