第32話 封を切る日

夜、静かに雨が降っていた。窓を打つ音が、まるで誰かの呼吸のように聞こえる。トモユキはデスクの前に座り、段ボールのひとつを開いた。母から送られてきたもので、整理された実家の荷物の一部だ。小さなメモが貼られていた。「お父さんのもの、あなたが持っておきなさい」と、短い文字だけが書かれている。

 中には古びたノート、錆びついた腕時計、そして封筒が一枚。黄ばんだ紙の表面には、見覚えのある父の字で「トモユキへ」とあった。胸の奥がぐっと締め付けられる。何年も前に他界した父。その声や笑顔は、もう直接聞くことはできない。しかし、目の前の封筒は、静かに父の存在を示していた。

 トモユキはしばらく封を開けず、指先で紙の感触を確かめた。紙の繊維の感触、手のひらに伝わる微かな厚み。触れるたびに、心の中に記憶の波が押し寄せる。封を開けることは、時間を巻き戻すこと。恐怖と期待が混ざり合い、息を止めて指を動かす。ビリ、と封が裂ける音が、夜の静寂の中で響いた。

 中には三枚の便箋。震えた文字で父の言葉が並んでいた。

 > トモユキへ。
 > この手紙を読むころ、俺はもうお前の前にはいないだろう。
 > すまんな。何も教えてやれなかった。
 > 髪のことも、人生のことも。

 文字を追うごとに、トモユキの視界は揺れた。涙なのか、昔の記憶の残像なのか、分からないものが込み上げてくる。

 > 俺は若いころ、自分の薄毛が本当に嫌だった。
 > 鏡を見るたび、誰かに負けたような気がした。
 > でもな、あるとき気づいたんだ。
 > 「髪」は、俺の中で“心の鏡”になっていたって。

 トモユキは手紙を胸に抱え、膝を抱えて座った。文字の一つひとつが、父の声のように響き、体の芯に染み入る。

 > 自信があるときは、薄くても光って見える。
 > 弱気になると、たとえフサフサでも、しぼんで見える。
 > 髪は、心の天気予報みたいなもんだ。

 父はいつも笑っていた。だがその笑顔の裏に、悩みや孤独があったことを、トモユキは大人になってやっと理解した。


 手紙を読み進めるうちに、トモユキの意識は小学生時代に飛ぶ。

 夏の午後、父が庭で水やりをしている横で、トモユキは自分の頭を手ぐしで撫でていた。まだ薄毛ではなく、柔らかい毛が光を受けて揺れていた。そのとき父は笑いながら言った。

 「お前の髪は、風を受けると輝くな」

 幼いトモユキはその言葉を額面通りに受け取った。しかし、その夜、父が浴室で鏡を見つめ、抜けた毛を数本つまんで溜息をついていたことを見て、少年心に奇妙な感覚が残った。

 “笑ってるけど、本当は悲しいんだろうな”

 それ以来、鏡を見ることは楽しみでもあり、恐怖でもあった。髪が自分の心の状態を映すということを、知らず知らずのうちに感じ取っていたのだ。


 現在に戻る。トモユキは手紙を読み終え、ノートを取り出す。古びたカバーは擦り切れ、ページは波打ち、インクは少しにじんでいる。それでも文字はしっかりと読み取れる。ページをめくるたび、父の思考、感情、そして髪に対する哲学が記されていた。

 > 髪は、過去を留める錨(いかり)だ。
 > そして、抜け落ちるたびに新しい風を迎える帆になる。
 > トモユキ、お前の風はどこへ吹いている?

 その問いかけに、胸が高鳴る。父は、息子が薄毛に悩むことを、ずっと前から理解していたのだ。悩みの中で一人で戦わせるのではなく、言葉で背中を押してくれていた。


 ノートを閉じると、窓の外に風が吹き込む。紙を揺らし、便箋の一枚が床に落ちた。そこには小さな追伸が書かれていた。

 > P.S. “あの少年”を、見つけなさい。

 トモユキは息を飲む。鏡の中に現れた“少年”のことか。幼少期の自分なのか、それとも父の若い頃の姿なのか。答えはまだわからない。しかし、その問いかけが、胸の奥に新たな風を吹き込む。


 その夜、トモユキはベッドに横たわり、目を閉じた。父の声、鏡の中の少年、風の感触。すべてが重なり、過去と現在の境界が溶けていく。

 “俺の風は、どこへ吹いている?”

 問いかけは、自分自身への挑戦でもあった。髪が薄くなることの恐怖、自分の弱さ、父への尊敬――それらすべてを抱え、前に進む勇気を持つ瞬間でもある。

 窓から入る夜風が、頬を撫でる。髪を揺らす感触は、幼い日の父の手のように温かい。鏡の中の自分が、ふっと微笑む。その微笑みは、父の微笑みと重なって見えた。

 だが、違和感も残る。鏡の奥に立つ“もう一人の影”。少年のようであり、大人のようでもあるその存在は、何かを知っているようだった。

 ――「まだ、終わってないよ」

 誰の声なのか、トモユキには分からない。だが確かに、部屋の静寂の中で聞こえた。

 風が再び便箋を揺らし、一枚が滑り落ちる。その音は、父の言葉の余韻のように響く。

 トモユキは立ち上がり、窓の外を見た。雨は上がり、街の灯りが濡れたアスファルトに反射して輝いていた。父の手紙、ノート、鏡の中の少年――それらが、彼の中で一つの道筋としてつながり始めている気がした。

 「俺は、前に進まなきゃいけない」

 声は小さくても、胸の奥で確かな力となった。髪のこと、父の遺した意味、そして自分の生き方――それらが、今、この夜の風に乗って新しい物語を紡ぎ始める。

 鏡の中の少年は、静かに微笑んだまま、目を逸らした。その違和感こそが、次の物語への鍵になる――過去と未来をつなぐ扉。

 トモユキは、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
 封を切った夜は、単なる過去との邂逅ではなく、新しい自分と向き合う“始まりの日”になったのだった。