その日は、何の予兆もなく始まった。
トモユキは、いつもより少しだけ早く家を出た。理由は特になかった。ただ、鏡の前で髪を整えているうちに、「今日は急ぐ必要がない」と感じただけだ。
その感覚自体が、彼にとっては珍しかった。
以前の彼は、朝という時間を嫌っていた。
光は残酷で、鏡は正直すぎた。
濡れた髪が乾いていく過程で、隠せていたものが、順番に露わになっていく。その時間を、彼はいつも早送りしたかった。
だが今朝は違った。
薄くなった前頭部を、必要以上に撫でることもなく、角度を変えて確認することもなかった。ただ、そこに「そういう自分の頭」がある、という事実を受け取っただけだった。
――慣れ、だろうか。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
慣れる、という言葉には、諦めと受容が混ざっている。その境界がどこにあるのか、彼にはまだわからなかった。
駅までの道を歩きながら、彼は風を意識した。
以前なら、少しでも強い風が吹く日は、無意識に頭をかばっていた。
だが今日は、風はただの風だった。
それが、少し怖かった。
会社では、特別なことは何も起きなかった。
同僚の佐藤が、昼休みに新しい髪型の話をしていた。
「美容師にさ、“思い切って短くしましょう”って言われてさ」
その会話に、トモユキの心は一瞬だけ反応した。
“思い切って”
その言葉は、いつも薄毛と隣り合わせで使われる。
だが、誰も彼の方を見なかった。
誰も、気まずそうな間を作らなかった。
誰も、彼の頭の話をしなかった。
それが、奇妙だった。
トモユキは、自分が透明になったような気がした。
薄毛という特徴が、彼を目立たせるのではなく、逆に世界から切り離しているような感覚。
――誰も、何も言わない。
それは、優しさなのか。
それとも、無関心なのか。
その境界もまた、彼にはまだ判断できなかった。
午後、コピー機の前で、若い女性社員とすれ違った。
彼女は一瞬、トモユキの顔を見て、軽く会釈した。
それだけだった。
以前の彼なら、その一瞬の視線に、意味を読み取ろうとしただろう。
「今、見られた」
「気づかれた」
「やっぱり、薄いと思われた」
だが今日は、違った。
彼は、その視線の“温度”を感じ取れなかった。
熱も、冷たさもなかった。
ただ、視線だった。
そのことが、なぜか胸に残った。
帰り道、彼は少し遠回りをして、公園を通った。
ベンチに座ると、向かい側に親子がいた。
小さな男の子が、風に吹かれて髪を乱しながら、何度も父親に言う。
「ねえ、髪、変じゃない?」
父親は笑って、男の子の頭を撫でた。
「大丈夫だよ。風のせいだ」
その言葉に、トモユキの胸がわずかに締めつけられた。
――風のせい。
それは、かつて父がよく使っていた言葉だった。
まだ自分が子どもだった頃、父の頭を見て、無邪気に聞いてしまったときの答え。
「お父さん、ここ、少し薄いね」
あのとき、父は一瞬だけ黙ってから、こう言った。
「風が強いからな」
その笑顔の裏に、何があったのか。
今なら、少しだけわかる気がした。
家に帰り、シャワーを浴びたあと、トモユキはまた鏡の前に立った。
濡れた髪。
乾いていく途中の、最も正直な状態。
彼は、そこに問いを投げかけた。
――俺は、今、どう見えている?
だが、答えは返ってこなかった。
その沈黙が、今日一番の出来事だった。
誰にも何も言われなかった日。
誰にも指摘されず、誰にも慰められなかった日。
それは、安らぎであると同時に、次の段階への入り口でもあった。
鏡の中の自分が、ほんの一瞬だけ、父と重なって見えた。
そして、その奥に、まだ言葉を持たない“何か”がいる気がした。
――まだ、終わっていない。
そう確信したところで、風が窓を鳴らした。
その音は、どこかで次の物語が動き出した合図のようだった。
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