第42話 善意の刃

それは、あまりにも何気ない一言だった。

 トモユキは、その日、取引先との打ち合わせを終えて、ビルの一階にある喫煙所の前を通りかかった。自分は煙草を吸わないが、そこを通るとき、いつも少しだけ歩調を緩める癖があった。理由ははっきりしない。ただ、誰かの生活の“隙間”を覗くような感覚が、嫌いではなかった。

 そのとき、背後から声がした。

 「トモユキさんですよね?」

 振り返ると、取引先の若い男性社員が立っていた。三十前後だろうか。背が高く、髪は多く、少し無造作に見えて、きちんと手入れされているタイプの人間だった。

 「はい」

 トモユキが答えると、彼は軽く笑って言った。

 「さっきの説明、すごく分かりやすかったです」

 その言葉に、トモユキは素直に礼を言った。
 こういう評価は、嫌いではない。むしろ、内向的な彼にとって、数少ない自信の源だった。

 だが、次の一言が続いた。

 「落ち着いて話されるから、年上かと思いました」

 一瞬、時間が止まったように感じた。

 年上。
 その言葉が、空気の中で静かに形を変えていく。

 「…そうですか?」

 トモユキは、声の調子を崩さないように注意しながら答えた。
 相手は何の悪気もない様子で、続けた。

 「はい。貫禄、ありますよね。安心感があるっていうか」

 安心感。
 貫禄。

 それらの言葉が、彼の中でゆっくりと結びついていく。

 ――それは、髪のことなのか。
 ――それとも、ただの話し方なのか。

 その判断ができないこと自体が、トモユキを揺さぶった。


 別れたあと、彼はエレベーターの中で、天井を見上げた。
 鏡張りの壁に、自分の頭が映る位置を、無意識に避けた。

 41話で感じた“何も言われなかった静けさ”は、ここにはなかった。
 代わりにあるのは、輪郭の曖昧な違和感だった。

 ――年上に見える。

 それは、褒め言葉なのだろう。
 社会的には、成熟や信頼の象徴だ。

 だが、トモユキの中では、別の翻訳が勝手に行われていた。

 ――老けて見える。
 ――髪が、そう見せている。

 自分でも驚くほど、その考えは自然に浮かんだ。


 帰宅後、彼は久しぶりに、洗面所の照明をすべて点けた。
 上から、横から、正面から。

 以前なら避けていた行為だ。

 鏡の中の自分は、確かに“若者”ではなかった。
 だが、“老人”でもない。

 その中間にある曖昧な場所。
 社会が勝手に意味づけをする年齢。

 トモユキは、指で生え際に触れた。

 父の手紙の言葉が、ふと蘇る。

 ――「人は、失ったものより、残ったものの意味を問われる」

 では、自分に残っているものは何だろう。

 知識。
 経験。
 落ち着き。

 それらが、髪と引き換えに得られたものだとしたら。

 その瞬間、彼の中に、初めて“怒り”に近い感情が生まれた。

 ――本当に、引き換えだったのか?


 翌日、会社で同僚の佐藤と雑談していたときのことだ。

 「そういえばさ」

 佐藤は、コーヒーを飲みながら言った。

 「最近、若く見られたいとか、あんまり思わなくなったわ」

 トモユキは、何気なく聞き返した。

 「どうして?」

 「疲れるじゃん。無理するの」

 その言葉に、トモユキは微かに笑った。

 だが同時に、心の奥で、別の声が囁いた。

 ――無理、なのか。
 ――それとも、諦めなのか。

 その境界線は、相変わらず曖昧だった。


 夜、彼はノートを開いた。
 父の手紙と一緒に、最近つけ始めたメモ帳だ。

 そこに、今日の出来事を書いた。

 「年上に見えると言われた。
  それが、嬉しかったのか、傷ついたのか、まだわからない。」

 ペンを置いたあと、しばらく考えた。

 そして、こう付け加えた。

 「でも、確かに揺れた。」

 揺れた、という事実だけは、否定できなかった。

 薄毛は、もはや単なる恐怖ではない。
 だが、完全に受け入れたわけでもない。

 それは、他人の言葉によって形を変える、不安定な存在だった。

 そのことを、彼は今日、はっきりと知った。


 窓を開けると、夜風が入ってきた。
 髪が、わずかに揺れる。

 トモユキは、その感触を確かめるように、目を閉じた。

 ――誰かの一言で、こんなにも揺れるなら。
 ――自分は、まだ途中なのだ。

 だが、不思議と絶望はなかった。

 むしろ、その揺れこそが、生きている証のように思えた。

 遠くで、風が鳴った。

 それは、次に来る“もっと直接的な言葉”の予告のようでもあった。