それは、あまりにも何気ない一言だった。
トモユキは、その日、取引先との打ち合わせを終えて、ビルの一階にある喫煙所の前を通りかかった。自分は煙草を吸わないが、そこを通るとき、いつも少しだけ歩調を緩める癖があった。理由ははっきりしない。ただ、誰かの生活の“隙間”を覗くような感覚が、嫌いではなかった。
そのとき、背後から声がした。
「トモユキさんですよね?」
振り返ると、取引先の若い男性社員が立っていた。三十前後だろうか。背が高く、髪は多く、少し無造作に見えて、きちんと手入れされているタイプの人間だった。
「はい」
トモユキが答えると、彼は軽く笑って言った。
「さっきの説明、すごく分かりやすかったです」
その言葉に、トモユキは素直に礼を言った。
こういう評価は、嫌いではない。むしろ、内向的な彼にとって、数少ない自信の源だった。
だが、次の一言が続いた。
「落ち着いて話されるから、年上かと思いました」
一瞬、時間が止まったように感じた。
年上。
その言葉が、空気の中で静かに形を変えていく。
「…そうですか?」
トモユキは、声の調子を崩さないように注意しながら答えた。
相手は何の悪気もない様子で、続けた。
「はい。貫禄、ありますよね。安心感があるっていうか」
安心感。
貫禄。
それらの言葉が、彼の中でゆっくりと結びついていく。
――それは、髪のことなのか。
――それとも、ただの話し方なのか。
その判断ができないこと自体が、トモユキを揺さぶった。
別れたあと、彼はエレベーターの中で、天井を見上げた。
鏡張りの壁に、自分の頭が映る位置を、無意識に避けた。
41話で感じた“何も言われなかった静けさ”は、ここにはなかった。
代わりにあるのは、輪郭の曖昧な違和感だった。
――年上に見える。
それは、褒め言葉なのだろう。
社会的には、成熟や信頼の象徴だ。
だが、トモユキの中では、別の翻訳が勝手に行われていた。
――老けて見える。
――髪が、そう見せている。
自分でも驚くほど、その考えは自然に浮かんだ。
帰宅後、彼は久しぶりに、洗面所の照明をすべて点けた。
上から、横から、正面から。
以前なら避けていた行為だ。
鏡の中の自分は、確かに“若者”ではなかった。
だが、“老人”でもない。
その中間にある曖昧な場所。
社会が勝手に意味づけをする年齢。
トモユキは、指で生え際に触れた。
父の手紙の言葉が、ふと蘇る。
――「人は、失ったものより、残ったものの意味を問われる」
では、自分に残っているものは何だろう。
知識。
経験。
落ち着き。
それらが、髪と引き換えに得られたものだとしたら。
その瞬間、彼の中に、初めて“怒り”に近い感情が生まれた。
――本当に、引き換えだったのか?
翌日、会社で同僚の佐藤と雑談していたときのことだ。
「そういえばさ」
佐藤は、コーヒーを飲みながら言った。
「最近、若く見られたいとか、あんまり思わなくなったわ」
トモユキは、何気なく聞き返した。
「どうして?」
「疲れるじゃん。無理するの」
その言葉に、トモユキは微かに笑った。
だが同時に、心の奥で、別の声が囁いた。
――無理、なのか。
――それとも、諦めなのか。
その境界線は、相変わらず曖昧だった。
夜、彼はノートを開いた。
父の手紙と一緒に、最近つけ始めたメモ帳だ。
そこに、今日の出来事を書いた。
「年上に見えると言われた。
それが、嬉しかったのか、傷ついたのか、まだわからない。」
ペンを置いたあと、しばらく考えた。
そして、こう付け加えた。
「でも、確かに揺れた。」
揺れた、という事実だけは、否定できなかった。
薄毛は、もはや単なる恐怖ではない。
だが、完全に受け入れたわけでもない。
それは、他人の言葉によって形を変える、不安定な存在だった。
そのことを、彼は今日、はっきりと知った。
窓を開けると、夜風が入ってきた。
髪が、わずかに揺れる。
トモユキは、その感触を確かめるように、目を閉じた。
――誰かの一言で、こんなにも揺れるなら。
――自分は、まだ途中なのだ。
だが、不思議と絶望はなかった。
むしろ、その揺れこそが、生きている証のように思えた。
遠くで、風が鳴った。
それは、次に来る“もっと直接的な言葉”の予告のようでもあった。
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