それは、準備のないところに落ちてきた。
午後三時。
社内の小さな会議室で、トモユキは若手社員二人と向かい合っていた。業務の引き継ぎと、簡単な進捗確認。内容は難しくない。彼にとっては、慣れた時間だった。
緊張はない。
言葉も、詰まらない。
頭の中は、驚くほど静かだった。
――今日は、うまくいっている。
そう思った、そのときだった。
「すみません、トモユキさん」
向かいに座る新人の女性が、少し言いづらそうに口を開いた。
「はい?」
「資料のこの写真なんですけど……」
彼女は、画面を指さした。
プロジェクターに映るのは、数年前の社内イベントの写真だった。そこに写っているのは、若いころのトモユキ。今より明らかに髪が多い。
「これ、今のトモユキさんですよね?」
「……そうですね」
彼女は、少し首をかしげて、こう言った。
「なんか、だいぶ変わりましたね」
その瞬間だった。
言葉が、空気を切り裂いたのは。
「……特に、頭の感じが」
沈黙が落ちた。
誰も、フォローしなかった。
誰も、笑わなかった。
誰も、話題を変えなかった。
ただ、その一言だけが、そこに残った。
トモユキの中で、何かが止まった。
音が消え、時間が引き伸ばされる。
視界がわずかに狭くなり、心臓の鼓動だけが、やけに大きく聞こえた。
――言われた。
はっきりと。
逃げ場のない形で。
善意でも、悪意でもない。
事実を見たまま、口にしただけ。
だからこそ、否定できなかった。
「……そうですね」
自分の声が、遠くで響いた。
自分のものではないようだった。
彼女は慌てた様子で、
「あ、すみません!変っていう意味じゃなくて……」
と続けたが、その言葉は、もう届いていなかった。
会議が終わり、トモユキは一人で席に戻った。
指先が、わずかに震えている。
それを隠すように、彼はキーボードに手を置いた。
画面には、無関係な数字が並んでいる。
だが、頭の中では、さっきの言葉が何度も再生されていた。
「だいぶ変わりましたね」
「頭の感じが」
42話で感じた“揺れ”とは、質が違う。
これは、直撃だった。
――自分は、ちゃんと見られている。
――そして、変化は、隠せていない。
それを、突きつけられた。
帰りの電車で、彼は窓に映る自分を見た。
夜のガラスは、残酷なほど正直だ。
蛍光灯の下で、生え際ははっきりと輪郭を持つ。
――昔の写真の自分。
――今の自分。
その差を、他人が口にした。
それだけのことなのに、なぜ、こんなにも重いのか。
トモユキは、父の顔を思い出した。
父も、きっと同じ瞬間を経験している。
誰かに言われたわけではなくても、
気づかされた瞬間を。
「変わったな」
その一言が、人生を分ける。
家に帰り、彼はシャワーも浴びず、鏡の前に立った。
今日は、避けなかった。
正面から、見た。
薄くなった部分。
残っている部分。
光の当たり方で変わる、印象。
「……確かに、変わった」
声に出して言った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
逃げなかったからだ。
言われた事実を、なかったことにしなかったからだ。
だが同時に、別の感情が湧いた。
――じゃあ、どうする?
この問いが、初めて現実味を帯びた。
ノートを開く。
今日は、長く書いた。
・言われた言葉
・その瞬間の感覚
・怒り
・恥
・そして、妙な静けさ
最後に、彼はこう書いた。
「逃げられない言葉を、今日、もらった。
でも、逃げなかったのは、初めてかもしれない。」
ペンを置いたとき、彼は気づいた。
これは、後退ではない。
段階が変わったのだと。
窓を開けると、夜風が入ってきた。
髪が揺れる。
だが、以前ほど、怖くはなかった。
怖さの正体が、はっきりしたからだ。
それは「失うこと」ではない。
変わっていく自分を、見ないふりできなくなることだった。
その事実を、他人の一言が、容赦なく突きつけた。
そしてトモユキは、初めてこう思った。
――次に言われたとき、
――自分は、どう返すだろうか。
その問いが生まれた時点で、
彼はもう、以前の自分ではなかった。
風が、静かに鳴った。
それは、**“選択の始まり”**を告げる音だった。
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