第43話 言われた瞬間

それは、準備のないところに落ちてきた。

 午後三時。
 社内の小さな会議室で、トモユキは若手社員二人と向かい合っていた。業務の引き継ぎと、簡単な進捗確認。内容は難しくない。彼にとっては、慣れた時間だった。

 緊張はない。
 言葉も、詰まらない。
 頭の中は、驚くほど静かだった。

 ――今日は、うまくいっている。

 そう思った、そのときだった。

 「すみません、トモユキさん」

 向かいに座る新人の女性が、少し言いづらそうに口を開いた。

 「はい?」

 「資料のこの写真なんですけど……」

 彼女は、画面を指さした。
 プロジェクターに映るのは、数年前の社内イベントの写真だった。そこに写っているのは、若いころのトモユキ。今より明らかに髪が多い。

 「これ、今のトモユキさんですよね?」

 「……そうですね」

 彼女は、少し首をかしげて、こう言った。

 「なんか、だいぶ変わりましたね」

 その瞬間だった。

 言葉が、空気を切り裂いたのは。

 「……特に、頭の感じが」

 沈黙が落ちた。

 誰も、フォローしなかった。
 誰も、笑わなかった。
 誰も、話題を変えなかった。

 ただ、その一言だけが、そこに残った。


 トモユキの中で、何かが止まった。

 音が消え、時間が引き伸ばされる。
 視界がわずかに狭くなり、心臓の鼓動だけが、やけに大きく聞こえた。

 ――言われた。

 はっきりと。
 逃げ場のない形で。

 善意でも、悪意でもない。
 事実を見たまま、口にしただけ。

 だからこそ、否定できなかった。

 「……そうですね」

 自分の声が、遠くで響いた。
 自分のものではないようだった。

 彼女は慌てた様子で、

 「あ、すみません!変っていう意味じゃなくて……」

 と続けたが、その言葉は、もう届いていなかった。


 会議が終わり、トモユキは一人で席に戻った。

 指先が、わずかに震えている。
 それを隠すように、彼はキーボードに手を置いた。

 画面には、無関係な数字が並んでいる。
 だが、頭の中では、さっきの言葉が何度も再生されていた。

 「だいぶ変わりましたね」
 「頭の感じが」

 42話で感じた“揺れ”とは、質が違う。
 これは、直撃だった。

 ――自分は、ちゃんと見られている。
 ――そして、変化は、隠せていない。

 それを、突きつけられた。


 帰りの電車で、彼は窓に映る自分を見た。

 夜のガラスは、残酷なほど正直だ。
 蛍光灯の下で、生え際ははっきりと輪郭を持つ。

 ――昔の写真の自分。
 ――今の自分。

 その差を、他人が口にした。
 それだけのことなのに、なぜ、こんなにも重いのか。

 トモユキは、父の顔を思い出した。

 父も、きっと同じ瞬間を経験している。
 誰かに言われたわけではなくても、
 気づかされた瞬間を。

 「変わったな」

 その一言が、人生を分ける。


 家に帰り、彼はシャワーも浴びず、鏡の前に立った。

 今日は、避けなかった。

 正面から、見た。

 薄くなった部分。
 残っている部分。
 光の当たり方で変わる、印象。

 「……確かに、変わった」

 声に出して言った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 逃げなかったからだ。

 言われた事実を、なかったことにしなかったからだ。

 だが同時に、別の感情が湧いた。

 ――じゃあ、どうする?

 この問いが、初めて現実味を帯びた。


 ノートを開く。

 今日は、長く書いた。

 ・言われた言葉
 ・その瞬間の感覚
・怒り
・恥
・そして、妙な静けさ

 最後に、彼はこう書いた。

 「逃げられない言葉を、今日、もらった。
  でも、逃げなかったのは、初めてかもしれない。」

 ペンを置いたとき、彼は気づいた。

 これは、後退ではない。
 段階が変わったのだと。


 窓を開けると、夜風が入ってきた。

 髪が揺れる。
 だが、以前ほど、怖くはなかった。

 怖さの正体が、はっきりしたからだ。

 それは「失うこと」ではない。
 変わっていく自分を、見ないふりできなくなることだった。

 その事実を、他人の一言が、容赦なく突きつけた。

 そしてトモユキは、初めてこう思った。

 ――次に言われたとき、
 ――自分は、どう返すだろうか。

 その問いが生まれた時点で、
 彼はもう、以前の自分ではなかった。

 風が、静かに鳴った。

 それは、**“選択の始まり”**を告げる音だった。