第44話 先に言った

それは、衝動だった。

 計画でも、覚悟でもない。
 言葉にするつもりなど、本当はなかった。

 その日、トモユキは美香と会っていた。
 仕事終わり、駅から少し離れた小さな居酒屋。照明は暗く、壁には年季の入った木の染みが残っている。選んだ理由はただ一つ――明るすぎないからだ。

 彼は、席に着いた瞬間から、自分の鼓動が少し早いことに気づいていた。

 ――今日は、何かが起きる。

 そんな予感だけが、胸の奥にあった。


 最初は、他愛のない話だった。

 仕事の愚痴。
 最近観た映画。
 美香の弟・ユウタの近況。

 トモユキは、いつも通り聞き役に回っていた。相槌を打ち、適度に笑い、言葉を選ぶ。その振る舞いは、長年かけて身につけた安全な型だった。

 だが、美香がふと、こんなことを言った。

 「トモユキってさ、最近ちょっと変わったよね」

 箸が止まる。

 「え?」

 「なんていうか……前より、静か?」

 静か。
 その言葉が、胸に落ちた。

 ――まただ。

 41話、42話、43話。
 「年上」「貫禄」「変わった」。

 他人の言葉が、少しずつ輪郭を持ち始めている。

 「悪い意味じゃないよ」と美香は続けた。「落ち着いてる、っていうか」

 その瞬間だった。

 トモユキの口が、彼自身の意志を追い越した。

 「……髪のせいかもしれない」

 言った。

 先に。


 空気が、止まった。

 美香の目が、ほんの一瞬だけ見開かれる。
 その表情を、トモユキははっきりと見てしまった。

 ――あ、見た。

 今まで、誰にも見せなかった瞬間だ。

 「え?」

 「薄くなってきてるから。前より、老けて見えるんだと思う」

 言葉は、意外なほど滑らかに出てきた。
 準備していなかったからこそ、飾りがなかった。

 胸の奥が、じん、と痛む。
 だが同時に、奇妙な解放感もあった。

 ――もう、隠していない。


 美香は、すぐには返事をしなかった。
 視線が、一瞬だけ、トモユキの頭のほうへ向かい、すぐに戻る。

 その一秒が、永遠のように長かった。

 ――今だ。
 ――ここで、何かを言われる。

 同情か。
 慰めか。
 あるいは、気まずい沈黙か。

 どれが来てもおかしくなかった。

 だが、美香はこう言った。

 「……自分から言うんだね」

 その声は、驚きよりも、戸惑いに近かった。

 トモユキは、ゆっくり頷いた。

 「最近、言われることが増えてきて。だったら、先に言ったほうがいい気がして」

 嘘ではなかった。
 だが、全てでもなかった。

 本当は――
 言われる前に、自分で触れたかった。
 その弱点に。


 「怖くない?」
 美香が、静かに聞いた。

 その問いは、鋭かった。
 逃げ道を塞ぐ質問だった。

 トモユキは、少し考えてから答えた。

 「……怖いよ」

 正直だった。

 「でも、言われるよりは、マシかもしれない」

 その言葉を口にした瞬間、彼は気づいた。
 これは防御ではない。
 選択だ。


 美香は、グラスを持ったまま、しばらく黙っていた。
 やがて、小さく息を吐いて言った。

 「私さ」

 その一言に、トモユキの背筋が伸びる。

 「ユウタのことで、ずっと後悔してることがある」

 ――来た。

 これは、ただの告白では終わらない。

 「弟が薄毛を気にし始めたとき、私、何も言わなかったの。触れちゃいけない気がして」

 トモユキは、黙って聞いた。

 「でも、あれって……逃げだったのかもって、最近思う」

 その言葉は、静かだったが、重かった。


 トモユキは、その瞬間、はっきりと理解した。

 自分が先に言ったことで、相手の言葉も引き出してしまったのだと。

 弱さを口にすることは、
 ただ傷つく行為ではない。
 他人の弱さを、呼び起こす。

 それは、危険でもある。

 だが――
 どこか、誠実でもあった。


 帰り道、夜風が頬を撫でた。

 トモユキは、今日の自分を思い返していた。

 ・初めて
 ・自分から
 ・薄毛を
 ・言葉にした

 それは、勝利でも敗北でもない。
 だが、確実に線を越えた

 もう、完全に元には戻れない。

 その事実に、胸が高鳴った。

 ――次は、どうなる?

 誰かに言われる前に、
 自分で語る。

 その行為が、どんな未来を連れてくるのか。

 風が、少し強く吹いた。

 だが彼は、頭を押さえなかった。

 そのことに、ふと気づき、
 小さく笑った。