第45話 言ってしまった男たち

午前九時三十分。

 トモユキは、会社の給湯室でコーヒーを淹れていた。
 紙コップに注がれる黒い液体を、ただ見つめている。

 ――あの夜から、三日。

 美香に言ったこと。
 「髪のせいかもしれない」と、先に口にしたこと。

 それが、思った以上に尾を引いていた。

 自分の中で、ではない。
 外側で。


 「トモユキさん」

 後ろから声をかけられ、肩がわずかに跳ねる。

 振り向くと、同じ部署の後輩・佐々木が立っていた。
 二十代後半。無邪気で、悪意のない男だ。

 「今度のプレゼンの件なんですけど」

 話は仕事だった。
 だが、佐々木の視線が、一瞬だけ、確かに――
 頭部に触れた

 その一瞬で、世界が歪む。

 ――来るか?

 言われるか?
 それとも、また自分から言うのか?

 トモユキの喉が、ひくりと鳴った。


 その瞬間、別の映像が、脳裏に割り込んできた。


〈回想①:ユウタ〉

 居酒屋の隅。
 トモユキと向かい合って座る、美香の弟・ユウタ。

 「兄さんさ」

 そう呼ばれたことが、少しだけ嬉しかった。

 「俺、最近、鏡見るのしんどいんすよ」

 ユウタは笑っていた。
 だが、その笑いは、どこか切れていた。

 「来てますよね。ここ」

 自分の前髪を指でつまみ、引っ張る。
 逃げ場のない仕草だった。

 トモユキは、何も言えなかった。

 するとユウタは、少し声を強くして続けた。

 「でも、気にしてないっす」

 ――嘘だ。

 「男なんて、どうせハゲますし」

 その言葉が、トモユキの胸を刺した。

 これは、逃げだ。

 自分が、ずっとやってきたやり方だ。


 「……トモユキさん?」

 現実に引き戻される。

 佐々木が、不思議そうに首を傾げている。

 「あ、すみません」

 トモユキは、コーヒーを持つ手を少し強く握った。

 そして――
 またしても、言葉が、意志を追い越した。

 「最近、俺、髪薄くなってきてて」

 給湯室の空気が、凍る。


 佐々木は、一瞬、完全に言葉を失った。
 予想していなかったのだ。

 トモユキ自身も、予想していなかった。

 ――二度目だ。

 自分から言うのは、これで二度目。

 「だから、ちょっと老けて見えたら、気にしないで」

 言い終えたあと、心臓が耳元で鳴っていた。


 佐々木は、慌てて笑った。

 「あ、いえ! 全然! そういうの、言われなきゃ分かんないですし!」

 その言葉は、
 慰めでも、否定でもあった。

 だが、トモユキの胸には、別の感情が残った。

 ――今、俺は、何をしている?

 防御か。
 暴露か。
 それとも――癖か。


 その疑問に、再び回想が重なる。


〈回想②:ユウタの選択〉

 「兄さんは、どう思います?」

 ユウタが、真顔で聞いてきた夜。

 トモユキは、少し迷ってから答えた。

 「……俺は、言われる前に言うのが、一番楽だった」

 その瞬間、ユウタの表情が、わずかに歪んだ。

 「それ、逃げじゃないっすか?」

 鋭い一言。

 「先に言えば、傷つかないみたいな」

 その言葉は、
 今のトモユキ自身に向けられた刃だった。


 給湯室に、沈黙が戻る。

 佐々木は、話題を切り替えるように、資料の話を始めた。
 だが、トモユキはもう、内容が頭に入ってこなかった。

 ――ユウタの言葉。
 ――佐々木の視線。
 ――自分から言ってしまった事実。

 それらが、頭の中で絡まり合う。


 昼休み。
 トモユキは、ビルの裏で一人、風に当たっていた。

 思った。

 言葉にすることは、楽ではない。

 むしろ、
 ・言ったあとも考える
 ・相手の反応を背負う
・もう引き返せない

 重さが、増える。

 それでも。

 ――黙って耐えるよりは、
 まだ、マシなのかもしれない。


 ユウタは、逃げた。
 トモユキは、口にした。

 どちらも、正しくない。
 どちらも、間違っていない。

 ただ――
 違う道だ。

 そして彼は、もう一つ、はっきり理解していた。

 この先、
 言ってしまった以上、
 「言わない自分」には戻れない。

 それが、怖くて、
 それが、少しだけ、誇らしかった。

 風が、強く吹いた。

 今度は、反射的に、
 頭を押さえてしまった。

 その矛盾に、
 トモユキは、苦笑した。