午前九時三十分。
トモユキは、会社の給湯室でコーヒーを淹れていた。
紙コップに注がれる黒い液体を、ただ見つめている。
――あの夜から、三日。
美香に言ったこと。
「髪のせいかもしれない」と、先に口にしたこと。
それが、思った以上に尾を引いていた。
自分の中で、ではない。
外側で。
「トモユキさん」
後ろから声をかけられ、肩がわずかに跳ねる。
振り向くと、同じ部署の後輩・佐々木が立っていた。
二十代後半。無邪気で、悪意のない男だ。
「今度のプレゼンの件なんですけど」
話は仕事だった。
だが、佐々木の視線が、一瞬だけ、確かに――
頭部に触れた。
その一瞬で、世界が歪む。
――来るか?
言われるか?
それとも、また自分から言うのか?
トモユキの喉が、ひくりと鳴った。
その瞬間、別の映像が、脳裏に割り込んできた。
〈回想①:ユウタ〉
居酒屋の隅。
トモユキと向かい合って座る、美香の弟・ユウタ。
「兄さんさ」
そう呼ばれたことが、少しだけ嬉しかった。
「俺、最近、鏡見るのしんどいんすよ」
ユウタは笑っていた。
だが、その笑いは、どこか切れていた。
「来てますよね。ここ」
自分の前髪を指でつまみ、引っ張る。
逃げ場のない仕草だった。
トモユキは、何も言えなかった。
するとユウタは、少し声を強くして続けた。
「でも、気にしてないっす」
――嘘だ。
「男なんて、どうせハゲますし」
その言葉が、トモユキの胸を刺した。
これは、逃げだ。
自分が、ずっとやってきたやり方だ。
「……トモユキさん?」
現実に引き戻される。
佐々木が、不思議そうに首を傾げている。
「あ、すみません」
トモユキは、コーヒーを持つ手を少し強く握った。
そして――
またしても、言葉が、意志を追い越した。
「最近、俺、髪薄くなってきてて」
給湯室の空気が、凍る。
佐々木は、一瞬、完全に言葉を失った。
予想していなかったのだ。
トモユキ自身も、予想していなかった。
――二度目だ。
自分から言うのは、これで二度目。
「だから、ちょっと老けて見えたら、気にしないで」
言い終えたあと、心臓が耳元で鳴っていた。
佐々木は、慌てて笑った。
「あ、いえ! 全然! そういうの、言われなきゃ分かんないですし!」
その言葉は、
慰めでも、否定でもあった。
だが、トモユキの胸には、別の感情が残った。
――今、俺は、何をしている?
防御か。
暴露か。
それとも――癖か。
その疑問に、再び回想が重なる。
〈回想②:ユウタの選択〉
「兄さんは、どう思います?」
ユウタが、真顔で聞いてきた夜。
トモユキは、少し迷ってから答えた。
「……俺は、言われる前に言うのが、一番楽だった」
その瞬間、ユウタの表情が、わずかに歪んだ。
「それ、逃げじゃないっすか?」
鋭い一言。
「先に言えば、傷つかないみたいな」
その言葉は、
今のトモユキ自身に向けられた刃だった。
給湯室に、沈黙が戻る。
佐々木は、話題を切り替えるように、資料の話を始めた。
だが、トモユキはもう、内容が頭に入ってこなかった。
――ユウタの言葉。
――佐々木の視線。
――自分から言ってしまった事実。
それらが、頭の中で絡まり合う。
昼休み。
トモユキは、ビルの裏で一人、風に当たっていた。
思った。
言葉にすることは、楽ではない。
むしろ、
・言ったあとも考える
・相手の反応を背負う
・もう引き返せない
重さが、増える。
それでも。
――黙って耐えるよりは、
まだ、マシなのかもしれない。
ユウタは、逃げた。
トモユキは、口にした。
どちらも、正しくない。
どちらも、間違っていない。
ただ――
違う道だ。
そして彼は、もう一つ、はっきり理解していた。
この先、
言ってしまった以上、
「言わない自分」には戻れない。
それが、怖くて、
それが、少しだけ、誇らしかった。
風が、強く吹いた。
今度は、反射的に、
頭を押さえてしまった。
その矛盾に、
トモユキは、苦笑した。
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