第52話 開き直ったと言われた日

翌週の月曜日は、雨だった。

 傘を差していても、
 駅から会社までの数分で、
 髪はしっとりと湿る。

 トモユキは、
 その感触に、
 以前ほど強く反応しなくなっていた。

 慣れた、というより、
 逃げ場がないと知ったからだ。


 エレベーターの鏡に映る自分を、
 ちらりと見る。

 光の加減で、
 頭頂部が、
 いつもよりはっきり見えた。

 それでも、
 目を逸らさなかった。

 逸らす理由が、
 少しずつ、
 減ってきている。


 フロアに入ると、
 妙に空気が軽かった。

 雑談の声。
 キーボードの音。
 コーヒーの匂い。

 いつもと同じ。

 だが、
 その「同じ」が、
 不安だった。


 午前十時。

 会議室に、
 メンバーが集まる。

 新しい企画の進捗共有。

 トモユキは、
 資料を開きながら、
 淡々と説明した。

 誰も、
 彼の頭を見ていない。

 少なくとも、
 そう見えた。


 会議が終わり、
 人がばらけ始めたとき。

 後輩の佐野が、
 近づいてきた。

 年下。
 入社三年目。

 どこか、
 人懐っこい。


 「トモユキさん」

 「うん?」

 「この前の話、
 ちょっと感動しました」


 その言葉に、
 胸の奥が、
 小さく揺れた。

 「……どの話?」

 わかっているのに、
 あえて確認する。


 「薄毛のことです」

 佐野は、
 あっさり言った。

 「正直に話すの、
 すごいなって」


 トモユキは、
 少しだけ笑った。

 「そう?」

 「はい。
 なんか、
 人として信用できるなって」


 その“信用”という言葉が、
 なぜか、
 引っかかった。

 だが、
 否定する理由もない。


 「実は」

 佐野は、
 声を潜めた。

 「僕も、
 ちょっと気にしてて」

 額の生え際を、
 指でなぞる。

 「将来、
 やばいかもなって」


 トモユキは、
 頷いた。

 「誰でも、
 考えるよ」

 それは、
 本心だった。


 佐野は、
 ほっとしたように笑った。

 「ですよね」

 そして、
 続けた。

 「だから、
 トモユキさんみたいに、
 いずれは
 受け入れられたらいいなって」


 その瞬間。

 トモユキの中で、
 何かが、
 わずかに歪んだ。


 「……受け入れた?」

 「はい」

 佐野は、
 迷いなく言った。

 「だって、
 もう開き直ってますよね?」


 その言葉は、
 刃ではなかった。

 むしろ、
 柔らかい。

 だからこそ、
 深く沈んだ。


 開き直っている。

 受け入れている。

 もう、
 苦しくない。


 ――本当に、
 そう見えるのか。


 「佐野くん」

 トモユキは、
 声を落とした。

 「開き直るって、
 どういう意味だと思う?」


 佐野は、
 少し考えた。

 「えっと……」

 「もう、
 気にしてない、
 みたいな」


 トモユキは、
 ゆっくり息を吐いた。

 否定はしない。

 ただ、
 事実を置く。


 「僕は、
 毎朝、
 鏡を見るたびに
 少しずつ傷ついてる」

 佐野の目が、
 わずかに揺れる。


 「昨日より
 減ってないか」

 「光の当たり方は
 どうか」

 「雨の日は
 どう見えるか」


 「それを」

 トモユキは、
 言葉を選ぶ。

 「人に話しただけ」


 沈黙。

 佐野は、
 気まずそうに笑った。

 「……すみません」


 「謝らなくていい」

 トモユキは、
 首を振った。

 「ただ、
 勘違いしてほしくない」


 「薄毛を言葉にすることと、
 薄毛が
 どうでもよくなることは、
 同じじゃない」


 その言葉は、
 誰に向けたものか、
 自分でも分からなかった。


 昼休み。

 一人で、
 定食屋に入る。

 テレビの音。
 油の匂い。

 いつもの席。


 ふと、
 隣のテーブルの会話が、
 耳に入った。

 「最近さ、
 あの人、
 薄毛キャラじゃん」

 「逆に、
 いじりづらいよな」

 「もう、
 自分で言ってるし」


 箸が、
 一瞬止まる。


 キャラ。

 その言葉は、
 便利だ。

 複雑なものを、
 一語で処理できる。


 トモユキは、
 味のしなくなったご飯を、
 口に運んだ。


 その夜。

 美香の部屋。

 ソファに並んで座り、
 テレビをつけている。

 だが、
 画面は見ていない。


 「今日ね」

 トモユキは、
 ぽつりと言った。

 「“開き直ってる”って
 言われた」


 美香は、
 何も言わず、
 続きを待つ。


 「僕、
 そう見えるらしい」

 「……どう感じた?」


 トモユキは、
 少し考えた。

 「楽になったって
 思われるのは、
 悪くない」

 「でも」

 一拍。

 「苦しさが、
 なかったことに
 されるのは、
 違う」


 美香は、
 静かに頷いた。

 「それって」

 「うん」

 「“分かったつもり”に
 される怖さだね」


 トモユキは、
 目を閉じた。

 その言葉が、
 ぴったりだった。


 薄毛を語った。

 理解されたと思った。

 だが、
 次の瞬間、
 物語にされ、
 整理され、
 安全な場所に
 押し込められる。


 「僕は」

 トモユキは、
 低く言った。

 「まだ、
 何も終わってない」


 美香は、
 彼の手を握った。

 強くはない。

 ただ、
 確かに。


 トモユキは、
 その温度を感じながら、
 思った。

 薄毛は、
 隠すものでも、
 克服するものでもない。

 そして――
 “分かりやすくしていいもの”でもない。


 夜更け。

 洗面所の鏡。

 電気をつける。

 真正面から、
 自分を見る。


 まだ、
 痛い。

 まだ、
 怖い。

 まだ、
 目を逸らしたくなる。


 それでも。

 トモユキは、
 鏡の中の自分に、
 小さく言った。

 「勝手に、
 終わらせるな」


 その言葉は、
 誰への命令か。

 他人か。
 社会か。
 それとも、
 過去の自分か。


 答えは、
 まだ、
 曖昧なままだった。

 だが、
 曖昧なままでも、
 時間は進む。

 髪は、
 減り続ける。

 心も、
 形を変え続ける。


 トモユキは、
 歯ブラシを置き、
 電気を消した。

 闇の中で、
 頭皮の感覚だけが、
 やけに鮮明だった。