第53話 好意の形をした誤解

その日は、やけに周囲が優しかった。

 朝、席に着くと、
 隣の席の佐々木が、いつもより柔らかい声で言った。

 「おはようございます。
 ……最近、元気そうですね」

 トモユキは、
 一瞬、意味を測った。

 「そうですか」

 「ええ。なんというか……
 開き直った感じ?」


 その言葉は、
 胸に引っかかった。

 だが、
 昨日の三浦とのやり取りがあったせいか、
 反射的に否定する気にはなれなかった。

 「……そう見えますか」

 佐々木は、
 うなずきながら言った。

 「正直、すごいと思いますよ。
 自分の弱み、
 ちゃんと出せるの」


 弱み。

 その言葉が、
 耳の奥で反響した。


 午前中の会議でも、
 似たような空気が流れた。

 発言すると、
 以前よりも丁寧に聞いてもらえる。

 否定されない。
 被せられない。

 だが、
 どこか違う。


 ――評価されているのは、
 自分の意見じゃない。

 ――「薄毛を受け入れた人間」という
 ラベルだ。


 会議後、
 後輩の中村が声をかけてきた。

 「トモユキさん、
 最近、
 薄毛のこと隠さなくなりましたよね」

 隠していたつもりは、
 もうなかった。

 それでも、
 この言い方には、
 引っかかる。


 「はい」

 「いや、
 それ、いいと思います」

 中村は、
 少し笑った。

 「なんか、
 人間味ありますし」


 その瞬間、
 トモユキの中で、
 何かが静かに崩れた。

 人間味。

 それは、
 肯定の言葉のはずだった。

 だが、
 裏返すと、
 こうも読める。

 ――今までは、
 人間じゃなかったみたいだ。


 昼休み。

 一人で食堂に向かう途中、
 ガラスに映る自分の頭を、
 無意識に見ていた。

 薄くなった部分は、
 相変わらず、
 そこにある。

 何も変わっていない。

 変わったのは、
 他人の解釈だ。


 午後、
 コピー機の前で、
 聞こえてしまった。

 ひそひそ声。

 「でもさ、
 トモユキさんって、
 もう吹っ切れてるよね」

 「うん。
 逆に、
 あれだけ堂々としてると
 気にならない」


 気にならない。

 その言葉が、
 胸を締めつけた。


 吹っ切れてなどいない。

 毎朝、
 鏡を見るたび、
 心臓は一瞬止まる。

 風が吹けば、
 無意識に頭を押さえる。

 電車の窓に映る自分から、
 目を逸らす日もある。


 それでも、
 語った。

 語らなければ、
 いなかったことにされると
 思ったから。


 だが今は、
 語ったことで、
 勝手に完結された

 ――あの人は、
 もう大丈夫。

 ――あの人は、
 受け入れている。


 帰り道。

 駅のホームで、
 風が吹いた。

 髪が揺れる。

 その感覚は、
 何度経験しても、
 慣れない。


 ふと、
 向かいのホームに立つ
 若い男性と目が合った。

 彼は、
 一瞬、
 トモユキの頭を見て、
 すぐに視線を逸らした。

 その動きは、
 あまりにも素直だった。


 そのとき、
 トモユキの胸に浮かんだのは、
 怒りでも、
 悲しみでもなかった。

 羨望だった。


 ――あの人は、
 まだ「気づいていない」。

 ――まだ、
 言葉にしなくていい。


 家に帰り、
 シャワーを浴びる。

 排水溝に溜まる髪。

 それを見て、
 深く息を吐いた。


 薄毛を語ることで、
 理解されると思っていた。

 だが、
 理解とは、
 ときに距離を確定させる行為でもある。


 ベッドに横になり、
 天井を見つめる。

 美香に、
 今日のことを話そうかと
 思った。

 だが、
 言葉が出てこない。


 代わりに、
 頭に浮かんだのは、
 母の声だった。

 「大丈夫よ」

 その言葉が、
 どれほど
 何も解決しなかったか。


 トモユキは、
 初めて思った。

 ――薄毛は、
 “分かってもらう”ために
 語るものじゃない。

 ――生きている限り、
 共に揺れ続けるものだ。


 そして、
 明日、
 また誰かが言うだろう。

 「もう平気ですよね」


 そのとき、
 自分は何と答えるのか。

 その問いが、
 静かに、
 眠りを遠ざけていた。