朝、会社のトイレの鏡の前には誰もいなかった。
トモユキは手を洗いながら、昨日の光景を思い出していた。
佐藤の指先。
頭頂部に広げられていく透明な液体。
そして、鏡に映った焦った目。
水の音が止まると、洗面台の上の静けさが戻った。
トモユキはタオルで手を拭きながら、ふと思った。
自分は、あの時どうするべきだったのだろう。
何か声をかけるべきだったのか。
それとも、何も言わないままで正しかったのか。
答えは出ないまま、仕事の時間が始まった。
佐藤はいつもより早く来ていた。
席に座っているが、落ち着きがない。
モニターを見ているようで、実際にはあまり見ていない。
トモユキは席に着いてからしばらくして、軽く声をかけた。
「おはよう」
佐藤は少し驚いた顔をして、すぐに頭を下げた。
「おはようございます」
その声には、どこか緊張が残っていた。
昨日のトイレの出来事を、二人とも覚えている。
だが、それを話題にする気配はなかった。
午前の仕事は淡々と進んだ。
メール。
資料確認。
短い会議。
いつも通りの時間が流れている。
だが、トモユキは一つのことに気づいた。
佐藤が席を立つ回数が多い。
一時間に一度くらい、トイレに行く。
戻ってくると、少しだけ髪が湿っている。
ほんのわずかな違いだが、トモユキには分かった。
あのボトルだ。
昼休み、トモユキはコンビニで弁当を買った。
外のベンチに座ると、少しだけ風が吹いている。
まだ冷たいが、冬の終わりの匂いが混じっていた。
弁当の蓋を開けながら、ふと自分の頭に手をやった。
髪は、以前より確実に薄い。
だが、触れたときの感覚にはもう慣れている。
それでも、思い出すことがある。
昔、自分も同じように焦っていた時期があった。
ネットの記事を読み漁り、
シャンプーを変え、
サプリメントを買い、
毎日鏡を覗き込んでいた。
あの頃は、何かを続けていないと不安だった。
何もしていないと、
自分の頭がどんどん失われていく気がした。
午後になると、フロアは少し眠い空気になった。
トモユキが資料を作っていると、隣で小さな音がした。
佐藤のスマートフォンだ。
画面をちらりと見て、すぐに伏せる。
だが、ほんの一瞬だけ内容が見えた。
検索結果のページだった。
「薄毛 改善」
「抜け毛 止める」
「育毛剤 効果」
文字が並んでいた。
トモユキは何も言わなかった。
だが、胸の奥に小さな重さが落ちた。
夕方。
フロアの照明が少し暗くなるころ、佐藤がまた席を立った。
トモユキは画面から目を離さずに、心の中で数えた。
三十秒。
一分。
二分。
五分。
少し長い。
やがて佐藤が戻ってきた。
席に座り、深く息を吐く。
その仕草は、運動を終えた人のようだった。
トモユキは思わず言った。
「最近、忙しい?」
佐藤は一瞬固まり、それから苦笑いをした。
「いや……そんなことないです」
少し沈黙が続く。
そして、佐藤が小さな声で言った。
「昨日のこと、見ましたよね」
トモユキは頷いた。
否定はしなかった。
佐藤は目を伏せて、机の上を指でなぞった。
「なんか……」
言葉が続かない。
トモユキは急がせなかった。
佐藤はやがて、ゆっくり話し始めた。
「止まらないんです」
「何が?」
「考えるのが」
佐藤は苦笑した。
「朝起きて、まず鏡を見るんです。
昨日より減ってるんじゃないかって」
少し間を置いて続ける。
「風呂入ったあとも、排水溝見て」
「ドライヤーしてるときも」
声はだんだん小さくなる。
「仕事してても、気づくと頭触ってて」
トモユキは静かに聞いていた。
その話は、遠い過去の記憶を呼び起こす。
佐藤は机を見たまま言った。
「だから、何かやらないとって思って」
「昨日、買ったんです」
あのボトル。
トモユキは頷いた。
「別に、悪いことじゃないですよ」
佐藤は少し驚いた顔をした。
「そうですか?」
「うん」
トモユキは正直に言った。
「何もしないのも不安だし、
何かするのも不安ですから」
佐藤はゆっくり頷いた。
その目には、まだ焦りが残っている。
だが、ほんの少しだけ安心も混じっていた。
仕事が終わり、外に出ると夜の空気だった。
駅へ向かう人の流れの中で、トモユキは歩きながら考えた。
佐藤の焦りは、まだ始まったばかりだ。
これから、いろんなことを試すだろう。
薬。
シャンプー。
情報。
そして、もしかしたら。
もっと極端な選択。
トモユキは空を見上げた。
街灯の光がぼんやり広がっている。
人は、自分の髪のために驚くほど多くの時間を使う。
それは滑稽にも見えるし、
とても真剣なことでもある。
家に帰る途中、トモユキはふと思った。
もしかすると。
佐藤は今、
自分がかつて通った道を歩いているのかもしれない。
ただ一つ違うのは。
その道を、
誰かが横で見ているということだった。
そしてその誰かは、
かつて同じ道で迷っていた人間だった。
トモユキはまだ決めていない。
どこまで口を出すのか。
どこまで見守るのか。
だが、確かなことが一つあった。
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