第61話 「強い言葉」

数日後の朝だった。

トモユキが席に着くと、すでに佐藤は来ていた。
パソコンの画面を見つめているが、指はほとんど動いていない。

画面には資料ではなく、何かの記事が開かれているようだった。

トモユキはコーヒーを置き、さりげなく横を通った。
そのとき、ほんの一瞬だけ文字が目に入った。

「最終手段」

「医学的アプローチ」

「劇的改善」

大きな見出しだった。

佐藤はすぐに画面を閉じた。
見られたことに気づいたらしい。

「おはようございます」

少し早口だった。

「おはよう」

トモユキはそれ以上触れなかった。

午前中は会議が続いた。
部署の小さな進行確認の会議だ。

資料の説明を聞きながら、トモユキはふと佐藤の様子を見た。

ペンを持っているが、メモはほとんど取っていない。
視線は机の上をさまよっている。

会議が終わると、佐藤はすぐ席を立った。

トイレの方向ではない。
廊下の奥の休憩スペースだった。

トモユキは少し迷ったが、数分後に同じ場所へ向かった。

休憩スペースには自動販売機がある。
昼前の時間で、人は少ない。

佐藤は窓際に立ってスマートフォンを見ていた。

真剣な顔だった。

トモユキは飲み物を買うふりをしながら、自然に近くへ行った。

すると、佐藤が画面をこちらに向けた。

「トモユキさん」

声は少し低い。

「ちょっと、聞いていいですか」

トモユキは頷いた。

佐藤はスマートフォンを差し出した。

そこにはクリニックのサイトが表示されていた。

大きな写真。
白い部屋。
医師らしい人物。

そして目立つ言葉。

「発毛治療」

「最新医療」

「短期間で変化」

トモユキは何も言わず、画面を見た。

佐藤が言った。

「こういうのって、どう思います?」

トモユキはすぐには答えなかった。

代わりに聞いた。

「気になってるんですか」

佐藤は小さく笑った。

「正直に言うと、かなり」

スマートフォンを見ながら続ける。

「薬とかあるみたいで」

「ちゃんと医学的に証明されてるって」

ページをスクロールする。

ビフォーアフターの写真が並んでいる。

黒い髪が増えていく頭頂部。

希望を感じさせる構図だった。

佐藤は少し声を落とした。

「俺、思ったんです」

「まだ間に合うんじゃないかって」

その言葉には、強い力が入っていた。

トモユキはその表情を見ていた。

焦り。
期待。
不安。

すべてが混ざっている。

トモユキはゆっくり言った。

「調べたこと、ありますよ」

佐藤が驚いた顔をした。

「え、そうなんですか」

「昔」

トモユキは窓の外を見た。

遠くのビルの屋上にアンテナが並んでいる。

「かなり調べました」

「薬も」

「クリニックも」

佐藤は少し身を乗り出した。

「じゃあ、どうでした?」

トモユキは考えた。

言葉を慎重に選ぶ。

「人によります」

正直な答えだった。

佐藤は少し困った顔をした。

「ですよね」

トモユキは続けた。

「効く人もいます」

「でも」

佐藤が顔を上げる。

「焦って決めると、疲れます」

その言葉は静かだった。

だが、佐藤はじっと聞いている。

トモユキは少しだけ笑った。

「僕、昔それで疲れました」

佐藤は何も言わない。

スマートフォンの画面には、まだ強い言葉が並んでいる。

「完全復活」

「確実」

「未来の髪」

トモユキはその画面を見て、ふと思った。

広告はいつも強い。

人が不安なときほど、強い言葉は響く。

佐藤はスマートフォンをポケットにしまった。

少し考えている様子だった。

「でも」

と佐藤は言った。

「一回くらい、相談だけでも行ってみようかなって思ってます」

トモユキは頷いた。

「それはいいと思います」

佐藤は驚いた顔をした。

「止めないんですか」

トモユキは笑った。

「止める理由はないです」

少し間を置く。

「ただ」

佐藤が顔を上げる。

「全部をそこに賭けない方がいいと思います」

佐藤はゆっくり頷いた。

その表情には、まだ迷いがある。

だが、昨日までの焦りとは少し違っていた。

何かを決める前の、静かな迷いだった。

午後、仕事に戻るとフロアはいつもの音に満ちていた。

キーボード。
電話。
プリンター。

日常の音。

トモユキは資料を作りながら思った。

人は、髪のためにいろんな道を探す。

薬。
習慣。
医療。

どれも間違いではない。

ただ、一つだけ難しいことがある。

それは。

どこまで希望を持つか。

そして、どこで現実と折り合いをつけるか。

その境界線は、人によって違う。

トモユキはふと横を見た。

佐藤はパソコンに向かっている。

だが、机の端にはメモが置かれていた。

そこには小さく書かれている。

「土曜 相談」

トモユキはその文字を見て、何も言わなかった。

ただ、静かに思った。

もしかしたら。

土曜日のあとで、この物語はまた少し動くかもしれない。