第63話 「思いがけない声」

火曜日の午後だった。

フロアにはいつもの仕事の音が流れている。
キーボードの打鍵、電話の着信、コピー機の動く音。

トモユキは資料を確認しながら、ふと隣を見る。

佐藤は落ち着いて仕事をしていた。
先週までのように頻繁に席を立つこともない。

机の端には、あの育毛剤のボトルも見えない。

もちろん、やめたのかどうかは分からない。
ただ、少なくとも焦りは少し薄れているように見えた。

そのときだった。

「ねえ、トモユキさん」

背後から声がした。

振り向くと、中村だった。

中村はいつも通りの軽い調子で立っている。

「ちょっといいです?」

トモユキは椅子を回した。

「どうしました?」

中村は少しだけ声を潜めた。

「最近さ」

その言葉で、トモユキはなんとなく察した。

だが、中村の次の言葉は予想とは少し違っていた。

「薄毛の話、してたじゃないですか」

トモユキは少しだけ目を細めた。

フロアの空気は普通だ。
だが、こういう話は思っているより遠くまで届く。

中村は続けた。

「この前、偶然聞こえちゃって」

「佐藤くんと話してたとき」

トモユキは特に驚かなかった。

給湯室や休憩スペースは、思ったより声が漏れる。

中村は腕を組みながら言った。

「ちょっと聞いてもいいです?」

トモユキは頷いた。

中村は一瞬ためらったあと、笑った。

「俺もなんですよ」

その言葉は、思ったより静かだった。

トモユキは少しだけ驚いた。

中村の髪は多い。
少なくとも見た目では、薄毛を気にしているようには見えない。

中村は頭の前の方を軽く触った。

「ここ」

指先で生え際をなぞる。

「昔より上がってる気がして」

少し苦笑する。

「たぶん気のせいなんですけど」

トモユキは何も言わない。

中村は続けた。

「でもさ」

「気づくと気になるんですよ」

「鏡とか」

「風呂とか」

その言葉を聞きながら、トモユキは思った。

この話は、どこかで聞いた。

佐藤の言葉とよく似ている。

中村は少し照れたように笑った。

「トモユキさん、普通に話してるじゃないですか」

「薄毛のこと」

トモユキは肩をすくめた。

「まあ、隠しても仕方ないですから」

中村はうんうんと頷いた。

「それ見てて思ったんですよ」

「なんか、普通に話してもいいんだなって」

そのとき、隣の席で椅子が動いた。

佐藤だった。

どうやら話は聞こえていたらしい。

少し戸惑った顔をしている。

中村は気づいて、軽く手を振った。

「佐藤くんもさ」

「最近そういう話してたよね」

佐藤は一瞬固まった。

それから苦笑する。

「まあ……少し」

フロアの中で、三人が小さな輪になっている。

誰も大きな声では話していない。
だが、不思議と周りの空気は穏やかだった。

中村は椅子を引き寄せて座った。

「なんかさ」

「男って、こういう話あんまりしないじゃないですか」

トモユキは頷いた。

「確かに」

中村は続けた。

「筋トレとか、車とか、ゲームとか」

「そういう話はいくらでもするのに」

「髪の話になると急に黙る」

三人とも少し笑った。

その笑いは小さいが、自然だった。

佐藤が言った。

「なんか、負けた感じするんですよね」

中村が頷く。

「それ」

トモユキは少し考えてから言った。

「たぶん」

二人がこちらを見る。

「負けじゃなくて、変化なんですよ」

言葉はゆっくりだった。

中村は腕を組んだ。

「変化かあ」

佐藤は少し考えるように頷いた。

フロアの時計が小さく音を立てる。

午後三時だった。

そのとき、遠くの席から声が聞こえた。

「中村ー」

別の同僚が呼んでいる。

中村は立ち上がった。

「じゃ、また」

歩きながら振り返る。

「なんか安心しました」

そう言って、自分の席へ戻っていった。

トモユキと佐藤は少しだけ黙っていた。

やがて佐藤が言った。

「なんか」

「増えてきましたね」

トモユキは笑った。

「何が?」

佐藤も笑う。

「仲間」

その言葉は冗談のようで、少し本気だった。

トモユキはパソコンの画面に目を戻しながら思った。

薄毛の話は、これまでずっと小さな個人の問題だった。

鏡の前で一人で考えるもの。

誰にも言わないもの。

でも今、このフロアの中で、少しだけ形が変わり始めている。

誰かが口にすると、
別の誰かも口にできる。

それは大きな変化ではない。

ただの雑談かもしれない。

それでも、トモユキには分かっていた。

物語は今、静かに広がっている。

一人の頭の上の問題から、
少しずつ、人と人の間の話になり始めていた。