火曜日の午後だった。
フロアにはいつもの仕事の音が流れている。
キーボードの打鍵、電話の着信、コピー機の動く音。
トモユキは資料を確認しながら、ふと隣を見る。
佐藤は落ち着いて仕事をしていた。
先週までのように頻繁に席を立つこともない。
机の端には、あの育毛剤のボトルも見えない。
もちろん、やめたのかどうかは分からない。
ただ、少なくとも焦りは少し薄れているように見えた。
そのときだった。
「ねえ、トモユキさん」
背後から声がした。
振り向くと、中村だった。
中村はいつも通りの軽い調子で立っている。
「ちょっといいです?」
トモユキは椅子を回した。
「どうしました?」
中村は少しだけ声を潜めた。
「最近さ」
その言葉で、トモユキはなんとなく察した。
だが、中村の次の言葉は予想とは少し違っていた。
「薄毛の話、してたじゃないですか」
トモユキは少しだけ目を細めた。
フロアの空気は普通だ。
だが、こういう話は思っているより遠くまで届く。
中村は続けた。
「この前、偶然聞こえちゃって」
「佐藤くんと話してたとき」
トモユキは特に驚かなかった。
給湯室や休憩スペースは、思ったより声が漏れる。
中村は腕を組みながら言った。
「ちょっと聞いてもいいです?」
トモユキは頷いた。
中村は一瞬ためらったあと、笑った。
「俺もなんですよ」
その言葉は、思ったより静かだった。
トモユキは少しだけ驚いた。
中村の髪は多い。
少なくとも見た目では、薄毛を気にしているようには見えない。
中村は頭の前の方を軽く触った。
「ここ」
指先で生え際をなぞる。
「昔より上がってる気がして」
少し苦笑する。
「たぶん気のせいなんですけど」
トモユキは何も言わない。
中村は続けた。
「でもさ」
「気づくと気になるんですよ」
「鏡とか」
「風呂とか」
その言葉を聞きながら、トモユキは思った。
この話は、どこかで聞いた。
佐藤の言葉とよく似ている。
中村は少し照れたように笑った。
「トモユキさん、普通に話してるじゃないですか」
「薄毛のこと」
トモユキは肩をすくめた。
「まあ、隠しても仕方ないですから」
中村はうんうんと頷いた。
「それ見てて思ったんですよ」
「なんか、普通に話してもいいんだなって」
そのとき、隣の席で椅子が動いた。
佐藤だった。
どうやら話は聞こえていたらしい。
少し戸惑った顔をしている。
中村は気づいて、軽く手を振った。
「佐藤くんもさ」
「最近そういう話してたよね」
佐藤は一瞬固まった。
それから苦笑する。
「まあ……少し」
フロアの中で、三人が小さな輪になっている。
誰も大きな声では話していない。
だが、不思議と周りの空気は穏やかだった。
中村は椅子を引き寄せて座った。
「なんかさ」
「男って、こういう話あんまりしないじゃないですか」
トモユキは頷いた。
「確かに」
中村は続けた。
「筋トレとか、車とか、ゲームとか」
「そういう話はいくらでもするのに」
「髪の話になると急に黙る」
三人とも少し笑った。
その笑いは小さいが、自然だった。
佐藤が言った。
「なんか、負けた感じするんですよね」
中村が頷く。
「それ」
トモユキは少し考えてから言った。
「たぶん」
二人がこちらを見る。
「負けじゃなくて、変化なんですよ」
言葉はゆっくりだった。
中村は腕を組んだ。
「変化かあ」
佐藤は少し考えるように頷いた。
フロアの時計が小さく音を立てる。
午後三時だった。
そのとき、遠くの席から声が聞こえた。
「中村ー」
別の同僚が呼んでいる。
中村は立ち上がった。
「じゃ、また」
歩きながら振り返る。
「なんか安心しました」
そう言って、自分の席へ戻っていった。
トモユキと佐藤は少しだけ黙っていた。
やがて佐藤が言った。
「なんか」
「増えてきましたね」
トモユキは笑った。
「何が?」
佐藤も笑う。
「仲間」
その言葉は冗談のようで、少し本気だった。
トモユキはパソコンの画面に目を戻しながら思った。
薄毛の話は、これまでずっと小さな個人の問題だった。
鏡の前で一人で考えるもの。
誰にも言わないもの。
でも今、このフロアの中で、少しだけ形が変わり始めている。
誰かが口にすると、
別の誰かも口にできる。
それは大きな変化ではない。
ただの雑談かもしれない。
それでも、トモユキには分かっていた。
物語は今、静かに広がっている。
一人の頭の上の問題から、
少しずつ、人と人の間の話になり始めていた。
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