第64話 「思わず止まった手」

水曜日の午後だった。

フロアには少しゆるい空気が流れている。
昼食後の時間で、誰もが少しだけ眠そうだ。

トモユキはパソコンの画面に向かいながら、資料の数字を確認していた。
数字を一つずつ見直していると、自然と周囲の音が遠くなる。

そのとき、隣から小さな声が聞こえた。

「やっぱり、ちょっと上がってますよね」

佐藤だった。

トモユキが顔を上げると、佐藤はスマートフォンを鏡代わりにして生え際を見ている。

「光の加減じゃないですか」

トモユキが言うと、佐藤は苦笑した。

「それ、最近よく自分にも言ってます」

そのやり取りを聞いて、中村が椅子を少し回した。

「またその話?」

笑いながら言う。

「いや、気になるんですよ」

佐藤は少し照れたように頭をかいた。

中村は自分の髪を軽く触った。

「俺も昨日風呂で数えちゃった」

「何を?」

佐藤が聞く。

「抜け毛」

三人とも少し笑った。

そのときだった。

「……え?」

小さな声が後ろから聞こえた。

三人が振り向くと、そこに立っていたのは総務の女性社員、山本だった。

コピー用紙の束を抱えたまま、少し驚いた顔をしている。

どうやら、さっきの会話を聞いてしまったらしい。

一瞬、空気が止まった。

佐藤の顔が一気に赤くなる。

中村は「やばい」という顔をした。

トモユキは特に表情を変えなかった。

山本は少し戸惑ったように笑った。

「すみません、聞こえちゃって」

コピー用紙を机に置きながら続ける。

「なんか、意外でした」

中村が聞き返す。

「何がですか?」

山本は少し考えてから言った。

「男性って、そういう話あんまりしないイメージだったので」

佐藤は完全に固まっていた。

中村は笑ってごまかす。

「いやー、まあ雑談ですよ」

山本は軽く首を振った。

「でも、ちょっと分かります」

その言葉に三人とも少し驚いた。

山本は続けた。

「女性もありますよ」

「何がですか」

中村が聞く。

山本は自分の髪を軽く触った。

「髪の悩み」

その言葉はとても自然だった。

「薄くなるとかじゃなくても」

「ボリュームとか」

「抜け毛とか」

少し笑う。

「あと、白髪とか」

中村は「なるほど」と頷いた。

佐藤も少し緊張が解けた顔をした。

山本は続ける。

「だから、なんか」

「普通に話してるの、ちょっといいなって思いました」

トモユキは静かに聞いていた。

山本はコピー用紙を整えながら言った。

「隠すより、健康的というか」

中村が笑う。

「健康的な薄毛ですか」

山本も笑った。

「言い方はちょっと難しいですけど」

そのとき、遠くで電話が鳴った。

山本は「あ、すみません」と言って席へ戻っていった。

三人は少しだけ沈黙した。

最初に口を開いたのは中村だった。

「なんか」

椅子に座り直す。

「思ったより普通の反応だった」

佐藤は深く頷いた。

「俺、めちゃくちゃ恥ずかしかったです」

トモユキは少し笑った。

「分かります」

佐藤は頭をかいた。

「でも」

少し考えてから続ける。

「なんか、ちょっと楽になりました」

その言葉は小さかったが、本音だった。

トモユキはパソコンの画面に視線を戻した。

仕事の画面の数字はさっきと同じだ。

だが、空気は少し変わっている。

つい数週間前まで、薄毛の話は完全に個人的なものだった。

鏡の前だけの問題。

誰にも言わない問題。

それが今、ほんの少しだけ、雑談になり始めている。

それは解決ではない。

髪が増えたわけでもない。

でも、確かに何かが変わっていた。

トモユキはふと思った。

もしかしたら。

薄毛というのは、
髪の問題だけではないのかもしれない。

それは、人がどこまで自分の弱さを話せるかという問題なのかもしれない。

隣で佐藤が言った。

「トモユキさん」

「はい」

「なんか」

少し笑う。

「この会社、思ったより優しいですね」

トモユキは画面を見たまま答えた。

「たぶん」

少し間を置く。

「人が優しいんですよ」