木曜日の朝だった。
会社のフロアには、いつものようにキーボードの音が広がっている。
誰もが自分の仕事に入り始める時間だ。
トモユキはコーヒーを机に置き、パソコンを開いた。
メールの受信箱には、いくつかの社内連絡が並んでいる。
その中に一つ、見慣れない件名があった。
「社内健康セミナーのお知らせ」
総務からの一斉メールだった。
トモユキは何気なくクリックした。
画面に表示されたのは、来月開催される健康セミナーの案内だった。
内容はよくあるものだ。
「睡眠改善」
「運動習慣」
「食生活」
だが、途中の一行でトモユキの目が止まった。
「頭皮環境とヘアケア」
ほんの短い項目だった。
トモユキは思わず少しだけ笑った。
その瞬間、隣から声がした。
「どうしました?」
佐藤だった。
トモユキは画面を指さした。
「これ」
佐藤はモニターを覗き込んだ。
数秒後、目が少し大きくなる。
「え」
それだけ言った。
さらに数秒。
佐藤はゆっくり椅子に座り直した。
「タイミングすごくないですか」
トモユキは肩をすくめた。
「たまたまでしょう」
そのとき、後ろから椅子の音がした。
中村が振り向いている。
「何の話?」
佐藤は苦笑しながら画面を見せた。
中村はメールを読み、途中で声を出した。
「あ」
そして、少し笑った。
「マジか」
三人の間に微妙な沈黙が生まれる。
中村が腕を組んだ。
「これ」
「参加するやついるのかな」
佐藤がすぐに言った。
「いるんじゃないですか」
中村は笑う。
「いや、絶対気まずいでしょ」
「頭皮セミナーって」
その言葉に佐藤も笑った。
「確かに」
トモユキはメールをもう一度見た。
「専門の講師を招いて」
「正しいケア方法を紹介します」
そんな文章が並んでいる。
中村が言った。
「これさ」
「参加したら負けな気がする」
佐藤はすぐに反応した。
「何の勝ち負けですか」
中村は少し考えた。
「なんか」
「認めた感じ」
その言葉を聞いて、三人とも少し黙った。
その感覚は、どこか分かる。
トモユキは静かに言った。
「でも」
二人がこちらを見る。
「知識はあった方がいいですよ」
中村は笑う。
「いやー」
「トモユキさんはもうベテランだから言えるんですよ」
佐藤も笑った。
「ベテランって言い方」
トモユキは苦笑した。
そのとき、遠くの席から山本の声が聞こえた。
「見ました?」
どうやら別の社員とメールの話をしているようだった。
「健康セミナー」
「私ちょっと興味あります」
その会話が小さくフロアに広がる。
中村が小声で言った。
「女性は普通に行くんだろうな」
佐藤は少し考えるように言った。
「逆に、男の方が気にしてるのかもしれませんね」
トモユキはその言葉を聞いて、少しだけ考えた。
確かにそうかもしれない。
女性は髪のケアを普通に話題にする。
美容院、トリートメント、カラー。
だが男性は違う。
髪の話になると、急に言葉が減る。
トモユキはメールの最後の行を見た。
「希望者は参加申請をしてください」
締切は来週だった。
佐藤が小さく言った。
「どうします?」
中村はすぐ答えた。
「俺は様子見」
佐藤は苦笑する。
「様子見って」
トモユキは画面を閉じた。
まだ決めていない。
ただ一つだけ思った。
もしこのセミナーに参加する人がいたら、そこにはきっといろんな人が集まる。
まだ悩み始めた人。
長く向き合っている人。
ただ興味がある人。
同じ部屋で、同じ話を聞く。
それは少し不思議な光景になるかもしれない。
隣で佐藤が言った。
「もし」
トモユキを見る。
「もしトモユキさんが行くなら」
少し笑う。
「俺も行きます」
中村がすぐに言った。
「巻き込むなよ」
三人とも笑った。
フロアにはいつもの仕事の音が戻っている。
だがトモユキは思った。
ほんの少し前まで、薄毛の話は完全に個人のものだった。
それが今、雑談になり、
そして今度は、会社のイベントになろうとしている。
問題は同じなのに、形だけが少しずつ変わっていく。
トモユキはパソコンの画面を開き直した。
メールはまだ受信箱に残っている。
参加ボタンは、まだ押されていない。
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