第66話 「堂々としている人」

金曜日の午後だった。

フロアには週末前の空気が流れている。
誰もが少しだけ気が緩んでいて、仕事の合間に小さな雑談が増える時間だ。

トモユキは資料を整理していた。
来週の会議で使うデータを確認している。

そのとき、後ろの席から声が聞こえた。

「そういえばさ」

中村だった。

椅子を少し回して、こちらを見ている。

「この前の健康セミナーの話なんだけど」

佐藤も顔を上げた。

「はい」

中村は少し笑った。

「別部署にいるらしいよ」

「何がですか」

佐藤が聞く。

中村は少し声を落とした。

「めちゃくちゃ堂々としてる人」

佐藤は首をかしげた。

「何がですか」

中村は頭を指さした。

「それ」

佐藤は一瞬理解できなかったが、すぐに気づいた。

「ああ」

小さく声を出す。

「薄毛の人?」

中村は頷いた。

「営業の人らしい」

トモユキはその話を黙って聞いていた。

中村は続ける。

「なんかさ」

「自分で普通に言うらしいんだよ」

「俺、ハゲてるからって」

佐藤は少し驚いた顔をした。

「そんな人いるんですか」

中村は笑った。

「いるみたい」

少し考えるように言う。

「しかも結構人気あるらしい」

佐藤は腕を組んだ。

「すごいですね」

トモユキはその言葉を聞きながら、少し考えていた。

堂々としている人。

それは簡単な言葉だが、実際にはなかなかできない。

そのときだった。

フロアの入り口の方から声がした。

「中村くん」

振り向くと、スーツ姿の男性が立っていた。

見たことはある。
だが名前は知らない。

年齢は三十代後半くらいだろうか。

明るい表情で歩いてくる。

そして、三人の近くまで来たときだった。

トモユキは気づいた。

その男性の頭は、かなり薄かった。

隠している様子はない。
短く整えられているが、頭頂部ははっきりと分かる。

中村が立ち上がる。

「田島さん」

どうやらこの人らしい。

田島は笑いながら言った。

「さっきの資料、ありがとう」

中村が答える。

「いえいえ」

少し雑談が続いたあと、田島の視線がトモユキたちに向いた。

「同じ部署?」

中村が紹介する。

「こっちがトモユキさんで、こっちが佐藤くんです」

田島は軽く手を上げた。

「営業の田島です」

二人も軽く挨拶する。

そのときだった。

田島は突然、自分の頭を軽く叩いた。

「いやー」

笑いながら言う。

「最近これが目立ってきてさ」

その言葉に三人は一瞬固まった。

田島は全く気にしていない様子で続ける。

「照明強いと反射するんだよね」

笑っている。

本当に普通の雑談のようだった。

中村が少し戸惑いながら笑う。

「いや、そんなことないですよ」

田島は首を振る。

「いやいや」

「もう完全に進行中」

その言い方はあまりにも軽かった。

トモユキは少し驚いていた。

隠すどころか、自分から話している。

しかも、冗談のように。

田島は続けた。

「でも楽だよ」

三人を見る。

「隠すのやめたら」

その言葉はさらっとしていた。

「昔はさ」

「めちゃくちゃ気にしてたんだけど」

「ある日どうでもよくなって」

肩をすくめる。

「そしたら仕事の方が忙しくなった」

笑う。

「人間の頭って、髪以外にも考えることあるんだよね」

その言葉に、三人は少しだけ笑った。

田島は時計を見た。

「じゃ、また」

軽く手を振って去っていく。

その背中を見ながら、しばらく沈黙が続いた。

最初に口を開いたのは佐藤だった。

「すごいですね」

本当に感心した声だった。

中村も頷く。

「思ったより普通だった」

トモユキは何も言わなかった。

ただ、田島の言葉を思い出していた。

「隠すのやめたら楽」

それは簡単な言葉のようで、実は難しい。

誰でもできるわけではない。

隣で佐藤が言った。

「なんか」

少し笑う。

「未来の自分見た気がします」

中村がすぐに言った。

「いや早いだろ」

三人とも笑った。

だがその笑いの中には、少しだけ安心があった。

トモユキは思った。

薄毛にはいろんな段階がある。

気づいたばかりの人。
必死に対策する人。
まだ認めない人。

そして、堂々としている人。

田島はきっと、その先にいる。

トモユキはパソコンの画面に目を戻した。

だが心のどこかで思った。

もしかしたら。

人は、ある日突然そこに辿り着くのではない。

少しずつ、少しずつ、
考え方が変わっていくのかもしれない。