金曜日の午後だった。
フロアには週末前の空気が流れている。
誰もが少しだけ気が緩んでいて、仕事の合間に小さな雑談が増える時間だ。
トモユキは資料を整理していた。
来週の会議で使うデータを確認している。
そのとき、後ろの席から声が聞こえた。
「そういえばさ」
中村だった。
椅子を少し回して、こちらを見ている。
「この前の健康セミナーの話なんだけど」
佐藤も顔を上げた。
「はい」
中村は少し笑った。
「別部署にいるらしいよ」
「何がですか」
佐藤が聞く。
中村は少し声を落とした。
「めちゃくちゃ堂々としてる人」
佐藤は首をかしげた。
「何がですか」
中村は頭を指さした。
「それ」
佐藤は一瞬理解できなかったが、すぐに気づいた。
「ああ」
小さく声を出す。
「薄毛の人?」
中村は頷いた。
「営業の人らしい」
トモユキはその話を黙って聞いていた。
中村は続ける。
「なんかさ」
「自分で普通に言うらしいんだよ」
「俺、ハゲてるからって」
佐藤は少し驚いた顔をした。
「そんな人いるんですか」
中村は笑った。
「いるみたい」
少し考えるように言う。
「しかも結構人気あるらしい」
佐藤は腕を組んだ。
「すごいですね」
トモユキはその言葉を聞きながら、少し考えていた。
堂々としている人。
それは簡単な言葉だが、実際にはなかなかできない。
そのときだった。
フロアの入り口の方から声がした。
「中村くん」
振り向くと、スーツ姿の男性が立っていた。
見たことはある。
だが名前は知らない。
年齢は三十代後半くらいだろうか。
明るい表情で歩いてくる。
そして、三人の近くまで来たときだった。
トモユキは気づいた。
その男性の頭は、かなり薄かった。
隠している様子はない。
短く整えられているが、頭頂部ははっきりと分かる。
中村が立ち上がる。
「田島さん」
どうやらこの人らしい。
田島は笑いながら言った。
「さっきの資料、ありがとう」
中村が答える。
「いえいえ」
少し雑談が続いたあと、田島の視線がトモユキたちに向いた。
「同じ部署?」
中村が紹介する。
「こっちがトモユキさんで、こっちが佐藤くんです」
田島は軽く手を上げた。
「営業の田島です」
二人も軽く挨拶する。
そのときだった。
田島は突然、自分の頭を軽く叩いた。
「いやー」
笑いながら言う。
「最近これが目立ってきてさ」
その言葉に三人は一瞬固まった。
田島は全く気にしていない様子で続ける。
「照明強いと反射するんだよね」
笑っている。
本当に普通の雑談のようだった。
中村が少し戸惑いながら笑う。
「いや、そんなことないですよ」
田島は首を振る。
「いやいや」
「もう完全に進行中」
その言い方はあまりにも軽かった。
トモユキは少し驚いていた。
隠すどころか、自分から話している。
しかも、冗談のように。
田島は続けた。
「でも楽だよ」
三人を見る。
「隠すのやめたら」
その言葉はさらっとしていた。
「昔はさ」
「めちゃくちゃ気にしてたんだけど」
「ある日どうでもよくなって」
肩をすくめる。
「そしたら仕事の方が忙しくなった」
笑う。
「人間の頭って、髪以外にも考えることあるんだよね」
その言葉に、三人は少しだけ笑った。
田島は時計を見た。
「じゃ、また」
軽く手を振って去っていく。
その背中を見ながら、しばらく沈黙が続いた。
最初に口を開いたのは佐藤だった。
「すごいですね」
本当に感心した声だった。
中村も頷く。
「思ったより普通だった」
トモユキは何も言わなかった。
ただ、田島の言葉を思い出していた。
「隠すのやめたら楽」
それは簡単な言葉のようで、実は難しい。
誰でもできるわけではない。
隣で佐藤が言った。
「なんか」
少し笑う。
「未来の自分見た気がします」
中村がすぐに言った。
「いや早いだろ」
三人とも笑った。
だがその笑いの中には、少しだけ安心があった。
トモユキは思った。
薄毛にはいろんな段階がある。
気づいたばかりの人。
必死に対策する人。
まだ認めない人。
そして、堂々としている人。
田島はきっと、その先にいる。
トモユキはパソコンの画面に目を戻した。
だが心のどこかで思った。
もしかしたら。
人は、ある日突然そこに辿り着くのではない。
少しずつ、少しずつ、
考え方が変わっていくのかもしれない。
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