その夜、佐藤はいつもより遅く帰宅した。
残業というほどではないが、仕事が少し長引いた。
会社を出たときにはすでに外は暗く、駅のホームには仕事帰りの人たちが並んでいた。
電車の窓に自分の顔がぼんやり映る。
蛍光灯の光の中で、ガラスの向こうに重なって見える自分の輪郭。
佐藤は無意識に視線を上げた。
額。
生え際。
ほんの数秒だけ確認して、すぐに視線を逸らした。
この行動は、ここ最近の習慣になっていた。
電車の窓。
エレベーターの鏡。
店のショーウィンドウ。
どこかに反射するものがあると、つい見てしまう。
見たところで何かが変わるわけではない。
それでも確認せずにはいられない。
家に着いたのは九時前だった。
小さなワンルームの部屋。
電気をつけると、いつもの静かな空間が広がる。
ジャケットを椅子にかけ、ネクタイを外し、深く息を吐く。
「はあ……」
疲れというより、頭の中が少し重たい。
キッチンで水を飲み、スマートフォンをテーブルに置く。
しばらくソファに座ってぼんやりしていたが、やがて立ち上がった。
風呂の準備をする。
シャワーを浴びる時間は、佐藤にとって少し複雑な時間になっていた。
服を脱ぎ、浴室に入る。
鏡がある。
その鏡を見るかどうか、毎回少し迷う。
今日は、見た。
真正面から。
濡れていない状態の髪。
前より後退しているのか。
それとも気のせいなのか。
頭を少し傾ける。
角度を変える。
手で髪を持ち上げてみる。
そして、やめた。
「……分からない」
誰もいない浴室で、ぽつりとつぶやく。
シャワーを出す。
水の音が広がる。
髪を濡らし、シャンプーを手に取る。
泡立てながら、指が自然と頭皮に触れる。
昔は何も考えずに洗っていた。
だが今は違う。
指先が、無意識に「量」を確認している。
髪の密度。
感触。
どこが薄いのか。
どこがまだ大丈夫なのか。
洗いながら、ふと田島の顔が浮かんだ。
昼間、会社で会った営業の人。
堂々としていた。
自分の頭のことを冗談のように話していた。
「隠すのやめたら楽」
その言葉が、頭の中に残っている。
佐藤はシャワーを止めた。
浴室の鏡は少し曇っている。
手で拭くと、自分の顔が現れる。
濡れた髪。
少しだけ額に張り付いている。
佐藤はゆっくりと手で髪をかき上げた。
生え際が見える。
そこに、ほんのわずかな違和感がある。
数年前よりも、少しだけ。
本当に少しだけ。
だが、確かに違う。
「……」
佐藤は鏡を見ながら、ある想像をしてしまった。
未来の自分。
五年後。
十年後。
額がもっと広くなっているかもしれない。
頭頂部が薄くなっているかもしれない。
田島のように。
あるいは、それ以上に。
その想像は、急にリアルになる。
鏡の中の顔が、自分でありながら少し遠い存在のように感じる。
佐藤は思った。
もし、本当にそうなったら。
自分はどうするだろう。
隠すだろうか。
帽子をかぶるだろうか。
髪型でごまかすだろうか。
それとも。
田島のように笑えるだろうか。
答えは出ない。
シャワーを浴び終え、タオルで髪を拭く。
ドライヤーを手に取る。
この時間も、少し緊張する時間になっていた。
風を当てながら、鏡を見る。
髪が乾いていく。
そして床に落ちるものがある。
抜け毛だ。
佐藤は目をそらそうとして、結局見てしまう。
一本。
二本。
三本。
「普通だ」
自分に言い聞かせる。
人間は一日に何十本も抜ける。
ネットで読んだ。
普通のことだ。
だが、それでも気になる。
ドライヤーを止めた。
部屋に戻る。
テーブルの上にスマートフォンがある。
手に取る。
指が自然と検索画面を開く。
「抜け毛 正常 本数」
「生え際 後退 年齢」
いくつかの記事が表示される。
スクロールする。
写真を見る。
ビフォーアフターを見る。
読めば読むほど、安心する部分と不安になる部分が混ざる。
やがて、スマートフォンを置いた。
ソファに座る。
部屋は静かだ。
その静けさの中で、佐藤は思い出した。
昼間の会話。
トモユキの言葉。
「全部をそこに賭けない方がいい」
その言葉の意味を、少し考える。
髪のことだけを考える生活。
鏡。
抜け毛。
治療。
検索。
もしそれが毎日続いたら。
きっと疲れる。
佐藤は天井を見た。
真っ白な天井。
何も書かれていない。
しばらくぼんやりしていたが、やがて立ち上がった。
机の引き出しを開ける。
中には、土曜日にもらったクリニックのパンフレットが入っていた。
取り出す。
ページをめくる。
治療の説明。
薬の説明。
料金。
そして、写真。
たくさんの変化の写真。
佐藤はそのページをしばらく見ていた。
やがてパンフレットを閉じる。
そして再び引き出しに戻した。
「……まだいいか」
小さくつぶやく。
決めたわけではない。
やめたわけでもない。
ただ、今すぐ答えを出す必要はない。
そう思えた。
その理由ははっきりしている。
トモユキ。
中村。
そして田島。
会社で出会った三人の存在。
もし自分一人だったら。
きっともっと焦っていた。
もっと検索していた。
もっと鏡を見ていた。
だが今は違う。
同じ話をできる人がいる。
それだけで、少しだけ気持ちが軽い。
佐藤は部屋の電気を消した。
ベッドに横になる。
暗い天井を見ながら、もう一度鏡の中の自分を思い出す。
未来の自分。
まだ分からない。
でも一つだけ思った。
もしその未来が来ても。
今日見た田島のように、笑える日が来るかもしれない。
その想像は、少しだけ安心できるものだった。
目を閉じる。
静かな夜の中で、佐藤の呼吸はゆっくり落ち着いていった。
そしてその頃、別の場所では。
トモユキもまた、鏡の前に立っていた。
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