その夜、トモユキはいつもより遅く帰宅した。
玄関のドアを閉めると、部屋の中には静かな空気が広がっていた。
照明をつけると、いつもの部屋が現れる。テーブル、ソファ、小さな本棚。そして壁際に置かれた背の低い鏡。
靴を脱ぎ、ジャケットを椅子にかける。
ネクタイを外し、深く息を吐いた。
一日の終わりのこの時間は、昔から好きでもあり、少し苦手でもある。
静かすぎるからだ。
仕事の音も、人の声も消え、部屋には自分だけが残る。
キッチンで水を飲み、しばらくぼんやりと窓の外を見ていた。
遠くの道路を車が走り、赤いテールランプがゆっくり動いていく。
その光を眺めながら、ふと昼間のことを思い出した。
田島。
営業の男。
自分の頭を叩きながら笑っていた姿。
「隠すのやめたら楽」
その言葉。
トモユキは小さく笑った。
簡単な言葉だ。
だが、そこに辿り着くまでには時間がかかる。
とても。
彼はゆっくりと洗面所へ向かった。
鏡の前に立つ。
そこには、今の自分がいる。
三十代の男。
少し疲れた顔。
そして、昔より確実に広くなった額。
トモユキは鏡を見ながら思った。
最初は、いつだっただろう。
自分が「それ」に気づいたのは。
はっきり覚えているわけではない。
だが、一つだけ、強く残っている日がある。
ある春の日だった。
まだ大学を卒業して、社会人になって一年目の頃。
二十三歳。
その日は休日だった。
トモユキは実家に帰っていた。
小さな地方の町。
駅前にはコンビニが一つと、古い商店街があるだけの場所。
昼過ぎ、母親に頼まれて買い物に出た。
スーパーの袋を提げて、家に戻る。
玄関を開けると、母の声が聞こえた。
「トモユキー?」
「うん」
「ちょっとこれ見て」
リビングに入ると、母はアルバムを広げていた。
古い写真。
トモユキの子供の頃の写真だ。
運動会、遠足、誕生日。
「懐かしいね」
母は楽しそうに笑う。
トモユキは少し照れながらアルバムを覗いた。
小学生の頃の自分。
髪が短くて、まだ顔も丸い。
母が指差す。
「これ覚えてる?」
海で撮った写真だった。
小学生のトモユキが、水着で笑っている。
髪が風で乱れている。
母が言った。
「この頃、髪多かったよね」
その言葉は、ただの思い出話だった。
何気ない一言。
だが、その瞬間、トモユキは少しだけ気になった。
「この頃って?」
母は笑った。
「今も多いけどさ」
「でも昔はもっとフサフサしてた」
トモユキは笑ってごまかした。
そのときは、まだ深く考えなかった。
夜になり、風呂に入った。
実家の古い浴室。
鏡が一枚ある。
湯気で曇った鏡を手で拭く。
そのときだった。
何気なく、髪をかき上げた。
額が見える。
その瞬間、ほんのわずかな違和感があった。
ほんの少し。
ほんの少しだけ。
「……あれ?」
トモユキは鏡を近くで見た。
角度を変える。
髪を持ち上げる。
その違和感は、とても小さいものだった。
たぶん他人が見たら気づかない。
だが、自分には分かる。
昔の写真の自分。
さっき見た海の写真。
あのときの生え際。
今の生え際。
ほんの少し違う。
その違いを見つけてしまった。
トモユキはしばらく鏡を見ていた。
湯気がまた鏡を曇らせる。
手で拭く。
もう一度見る。
「気のせいだろ」
小さくつぶやいた。
だが、その夜。
布団に入っても、さっきの鏡が頭から離れなかった。
翌日。
東京のアパートに戻った。
月曜日。
仕事に行く。
会社のトイレ。
洗面台の鏡。
蛍光灯の光。
トモユキは何気なく、自分の髪を見た。
そしてまた、あの違和感を感じた。
ほんの少しだけ。
額。
生え際。
それが「はじまり」だった。
それからの日々は、少しずつ変わっていった。
最初は週に一回鏡を見るだけだった。
それが毎日になった。
そして、気づくと一日に何度も見ている。
スマートフォンで検索する。
「生え際 後退」
「若ハゲ」
「対策」
記事を読む。
安心する記事。
不安になる記事。
シャンプーを変えた。
育毛剤も試した。
食生活も気にした。
枕も変えた。
それでも、不安は消えなかった。
ある夜。
会社の飲み会があった。
同期の集まりだった。
居酒屋で酒を飲み、仕事の愚痴を言い合う。
そのとき、誰かが言った。
「そういえばさ」
笑いながら。
「将来ハゲそうなやつっているよな」
軽い冗談だった。
誰かが別の同期を指さす。
「お前だろ」
笑いが起きる。
トモユキも笑った。
そのとき。
別の男が、冗談で言った。
「トモユキも危ないんじゃない?」
その瞬間。
場の空気は軽いままだった。
みんな笑っている。
ただの冗談。
だがトモユキの中では、何かが止まった。
一瞬。
胸の奥が冷たくなる。
トモユキは笑って返した。
「まだ大丈夫だろ」
みんな笑う。
話題はすぐ別の方向へ流れた。
だがその夜、家に帰ったあと。
トモユキは鏡の前に立った。
部屋の小さな鏡。
蛍光灯の光。
静かな部屋。
髪をかき上げる。
生え際を見る。
そして思った。
「本当に大丈夫か?」
その日から。
鏡を見る回数はさらに増えた。
トモユキは今、洗面所の鏡の前でその記憶を思い出していた。
あの頃の自分。
まだ若くて、未来が遠かった頃。
髪のことを考える時間が、こんなに長くなるとは思っていなかった。
トモユキは鏡の中の自分を見た。
今の自分。
額は広くなっている。
だが、不思議と昔ほど焦りはない。
時間が変えたもの。
経験が変えたもの。
そして。
最近、少しだけ増えたもの。
佐藤。
中村。
田島。
同じ話をできる人たち。
トモユキは蛇口をひねり、水で顔を洗った。
顔を上げる。
鏡の中の自分。
少しだけ、穏やかな顔をしていた。
トモユキはふと思った。
あの日の鏡。
あの日の違和感。
あの日の一言。
それらが、今の自分につながっている。
人生には、大きな出来事だけがあるわけではない。
ほんの小さな違和感。
ほんの一言。
ほんの一瞬の鏡。
それが、長い時間の始まりになることがある。
トモユキは電気を消し、部屋へ戻った。
夜は静かだった。
そしてその頃。
別の場所では、佐藤もまた鏡を見ていた。
同じように。
ほんの少しの不安を抱えながら
最近のコメント