翌週の火曜日、昼過ぎだった。
昼休みが終わり、フロアには少しだけ静かな空気が戻っていた。
食後の時間は、どうしても仕事のペースがゆっくりになる。
キーボードを打つ音はしているが、どこか眠気を含んだ音だ。
佐藤は資料の修正をしていた。
数字を一つ直し、文章を少し整える。
だが集中は長く続かなかった。
ふと視線が画面から離れる。
指が止まる。
気づくと、右手が無意識に頭へ向かっていた。
生え際。
指先が軽く触れる。
「……」
何も言わないが、少しだけ苦笑した。
最近、この動作が増えている。
完全に癖だ。
そのときだった。
後ろから声がした。
「佐藤くん」
振り向くと、総務の山本が立っていた。
両手にファイルを抱えている。
「はい?」
山本は少し困った顔をしていた。
「ちょっと手伝ってもらってもいい?」
「何ですか?」
「倉庫の整理」
そう言って苦笑する。
「昔の資料が多すぎて」
佐藤は椅子から立ち上がった。
「いいですよ」
「助かる」
二人はフロアの奥へ歩いていった。
オフィスのさらに奥に、小さな資料室がある。
普段はあまり人が入らない場所だ。
ドアを開けると、少しだけ古い紙の匂いがした。
棚が並び、段ボール箱が積まれている。
山本が言った。
「この辺なんだけど」
一番奥の棚を指さす。
「古い社内イベントの資料とか」
佐藤は箱を一つ持ち上げた。
思ったより重い。
「これですか」
「そうそう」
二人で段ボールをテーブルに置く。
蓋を開けると、中にはクリアファイルが大量に入っていた。
山本は一つずつ確認しながら言う。
「古いのは処分する予定なの」
「なるほど」
佐藤は隣でファイルを取り出す。
社内報。
イベントの案内。
写真。
いろんな紙が混ざっている。
その中に、一枚の大きな写真があった。
厚めの紙に印刷された集合写真。
佐藤はそれを手に取った。
「これ」
山本が覗き込む。
「ああ」
少し笑う。
「だいぶ前の社員旅行」
写真には大勢の人が写っていた。
たぶん三十人以上。
海辺のような場所で、みんな笑っている。
服装を見ると、かなり昔の写真だと分かる。
佐藤はなんとなく、写真をじっと見た。
知らない顔ばかり。
若い人もいれば、年配の人もいる。
そのとき、あることに気づいた。
写っている男性の中に、薄毛の人が何人もいる。
頭頂部がはっきり見える人。
額がかなり広い人。
完全に髪がない人。
だが、全員笑っている。
自然に。
楽しそうに。
佐藤は少しだけ見入っていた。
そのとき山本が言った。
「あ」
指をさす。
「この人」
佐藤が見る。
写真の中央付近。
そこに写っている男性。
笑顔で腕を組んでいる。
髪はかなり薄い。
だが、その顔はどこか見覚えがあった。
佐藤は少し目を細めた。
「……あれ?」
山本が言った。
「分かる?」
佐藤はゆっくり言った。
「もしかして」
「田島さん?」
山本は頷いた。
「そう」
少し笑う。
「若いでしょ」
佐藤は写真をもう一度見た。
確かに田島だ。
今より少し若いが、顔は同じ。
そしてその頭。
すでにかなり薄い。
今とほとんど変わらない。
佐藤は驚いた。
「え」
思わず声が出る。
「これ、いつの写真ですか」
山本はファイルのメモを見る。
「えーと……」
少し探してから言った。
「十二年前」
佐藤は写真を見つめた。
十二年前。
つまり。
田島はその頃から、すでにこの状態だった。
なのに。
あの人は今、あんなふうに笑っている。
仕事も普通にしている。
堂々としている。
佐藤は不思議な気持ちになった。
時間が急に長く感じられた。
十二年。
自分はまだ、気づいて数ヶ月だ。
そのとき山本が言った。
「田島さん、昔からああだよ」
「え?」
「堂々としてるの」
山本は笑った。
「入社した頃から、普通にネタにしてた」
佐藤は驚いた。
「そうなんですか」
「うん」
山本は続けた。
「でもね」
少し懐かしそうな顔になる。
「最初からそうだったわけじゃないみたい」
佐藤は顔を上げた。
「え?」
山本は写真を見ながら言った。
「昔聞いたことあるんだけど」
「若い頃は結構悩んでたらしいよ」
佐藤は写真の中の田島を見つめた。
海辺。
笑顔。
腕を組んでいる。
その姿は、とても自然だった。
山本は言った。
「でもある日、急に変わったんだって」
「変わった?」
「うん」
山本は少し首をかしげる。
「何があったかまでは知らないけど」
「ある年から急に」
「堂々とするようになった」
佐藤は何も言えなかった。
写真をじっと見ている。
十二年前の田島。
今の田島。
時間は流れている。
だが、その人はちゃんとそこにいる。
消えていない。
変わっていない。
佐藤はふと、自分の未来を想像した。
十年後。
二十年後。
そのとき、自分はどうしているだろう。
髪はどうなっているだろう。
そして。
自分は笑っているだろうか。
山本が言った。
「それ、どうする?」
写真を指さす。
「一応、保管しておく?」
佐藤は少し考えた。
そして言った。
「残しておきましょう」
山本は頷いた。
「そうだね」
写真はファイルに戻された。
だがその瞬間、佐藤の頭の中には、あの笑顔が残っていた。
堂々とした笑顔。
十二年前から変わらない人。
佐藤は思った。
未来は怖い。
だが。
もしかしたら。
その未来の中には、思っているより普通の時間が流れているのかもしれない。
倉庫の蛍光灯の下で、佐藤は静かに写真の箱を閉じた。
その夜、トモユキはある古いメッセージを思い出していた。
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