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第14話 赤いネクタイの影

翌朝、出社途中のトモユキは、改札を抜けた瞬間に胸の奥がざわついた。湿った秋の空気の中で、ひときわ鮮やかな赤が視界の端に揺れた気がしたのだ。それは昨日、カフェの外で一瞬だけ目にしたあの赤いネクタイ――。振り返る。しかしそこには、傘を差して足早に歩く人々の群れしかいない。雨

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第13話 音のない会話

朝の通勤電車は、いつもと同じ揺れと人の波だった。だがトモユキの心は、昨日とは違う。バッグの中にある小さな包み――返された折りたたみ傘が、妙に重い。あのメモ、「またお世話になるかもしれません」。ただの社交辞令にしては、引っかかる。気にならないようにすればするほど、その文字が浮かび

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第12話 傘の記憶

翌朝、湿度は少し下がっていた。空気は軽くなったが、胸の奥の重さは消えない。昨日、美香とすれ違ったときの視線――あれは、やはり偶然だったのか。それとも…。鏡の前で髪を整える。寝癖は直ったが、頭頂部はどうにもならない。光の角度によって、地肌がじわりと透けて見える。ブラシを持

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第11話 鏡の中の湿度

雨上がりの朝。目覚めた瞬間から、空気がまとわりつくように重かった。カーテン越しに射し込む光は白く濁り、部屋全体が湿った布で覆われているようだ。窓を開けると、昨日の雨を吸い込んだ街が、一斉に息を吐き出すような匂いを放っていた。アスファルトの亀裂からは雑草が、濡れた葉をぴんと伸ばし

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第10話 傘の下の距離

昼から降り出した雨は、夕方になっても一向に弱まる気配を見せなかった。オフィスビルの窓は雨粒で曇り、外の景色をぼやけさせている。ビルの向かいにある古いビジネスホテルの看板が、雨に滲んだネオンでぼんやりと赤く光っていた。その光が、トモユキのデスクに置かれたステンレスのマグカップにも

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第9話 視線の温度

午後二時過ぎのオフィスは、夏の蒸し暑さの名残をかすかに漂わせながらも、空調の効いた室内に沈黙が覆いかぶさっていた。窓の外の街路樹が、微風にそよぎ、柔らかい葉擦れの音がかすかに聞こえる。パソコンのファンの微かな唸り、コピー機の周期的な稼働音が、まるでオーケストラの弱音のように全体

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第8話 影の中で

光を避ける生活は、最初は小さな工夫にすぎなかった。会議室での座席を壁際に選ぶ、街灯の下を歩くときは帽子をかぶる。ほんの少しの注意で、自分の心は守られる――そう思っていた。しかし、日々はその小さな工夫を膨らませ、やがてそれは生活の中心を占めるようになっていった。朝、カーテ

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第7話「光の罠」

美容院で髪を整えてからの数日間、トモユキはまるで新しい世界を歩いているようだった。鏡に映る自分は、確かに以前より精悍で、どこか柔らかい光をまとっているように見えた。電車の窓、オフィスビルの自動ドア、喫茶店のステンレスのポット。以前なら避けていた反射する面に、今は自然と視線を向け

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第6話「鏡の中のもう一人の男」

トモユキは朝、洗面所の鏡の前に立つたび、まるで知らない誰かと対峙しているかのような感覚に囚われていた。そこに映る自分の姿は、彼が思い描いていた「自分」とは少し違っていた。髪は薄くなり、分け目の地肌が以前よりも明らかに見えている。ほんの数ミリの差が、彼の心に大きな影を落としていた

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第5話「風が怖い日」

朝のニュース番組の天気予報で「今日は風が強く吹き荒れる一日になります」と気象予報士が朗らかな笑顔で告げていたとき、トモユキはもうベッドの中で憂鬱な気持ちに支配されていた。 風が強い日が嫌いだった。 いや、「嫌い」という言葉ではまだ足りない。 風が吹くたびに、自分の髪の毛